科学の面白さは、
――どこまでが、わかっているか。
にはなく、
――どこからが、わかっていないか。
にある。
例えば――
ミトコンドリア・イブという概念がある。
ミトコンドリアとは、細胞内部の小器官だ。
独自の遺伝情報をもっている。
その遺伝情報を解析することで――
現代人の遺伝的根源をたどれると考えられている。
なぜ、たどれるのか?
ミトコンドリアの遺伝情報は、細胞核の遺伝情報よりも単純な上に、母から子へしか受け継がれないからである。
よって、解析が比較的、容易だ。
このことから、ミトコンドリア・イブという概念が生まれた。
全ての現代人は、一人の女性の産んだ子供たちの子孫である、という学説である。
その女性をさし、「ミトコンドリア・イブ」という。
10万年ほど前のアフリカで暮らしていたそうだ。
このことをもって、
――ミトコンドリア・イブはヒトであり、その親はヒトではなく、ヒトのなる前の種である。
と誤解する人がいる。
たしかに、そう考えたほうが面白いのは認める。
が、そういう面白さと科学の関心とは無縁だ。
ミトコンドリア・イブの仮説が主張することは――
現代人全員の祖先をたどっていくと10万年ほど前にアフリカで暮らしていた特定の女性の存在に行き当たる、ということだけである。
その女性はヒトなのか?
おそらく、ヒトであろう。
では、その親は?
たぶん、ヒトであろう。
が、もしかしたら、ヒトではないかもしれない。
ハッキリしたことはわからい。
この、
――ハッキリしたことはわからない。
というのが、科学の醍醐味である。
わからないことがあるからこそ、面白い。
わかったことだけを取り出し、練り合わせ続けたところで――
科学の面白さは、微塵も出てこない。