海外を旅していて――
ときどき、妙に気が合う人と出会うことがある。
「気が合う人」というのは、もちろん現地の人だ。
顔も言葉も肌の色も違うのに――
妙に話が弾む。
日本のことだったり、文化のことだったり、天候のことだったり――
持ち寄る話題が、どれもヒットする――
そういうことである。
そこで――
ハタと考え込んでしまうこともある。
こんなに気の合う日本人を、日本国内で探すのに、一体どれくらいの時間と手間とが必要だろうか、と――
――近くの日本人より、遠くの外国人――
らしき標語のようなものを思い浮かべてしまうのは――
そういうときである。
同じような顔、同じ言葉、同じ肌の色――
それでも、互いに全く理解できない人がいる。
たくさんいる。
むしろ――
そういう人のほうが、圧倒的に多数かもしれない。
このことを忘れないようにしたいものだ。
僕らは日頃、日本という国において、日本人という名の同胞たちに囲まれて暮らしているわけだが――
――日本人に囲まれて安心――
という見方は、かなりの部分、マヤカシだと思っている。
日本人だからといって、理解し合えるとは限らない。
むしろ、果てしなく誤解を重ね合う可能性がある。
顔は関係がない。
言葉も関係がない。
肌の色も関係がない。
気が合うかどうかは――
例えば、それまでの生い立ちなどに、強く依存する。
同じような好奇心をもっているか――
同じような教育を受けてきたか――
同じような志向性を備えているか――
気が合うかどうかは――
実際に話をしてみるまで、一切わからない。