20年ほど前に――
ある医学生がエッセイとして書いたことである。
――医か理か、それが問題だ。
と――
この医学生は、かつて理学部の物理学科に在籍し、その後、志を変えて医学部に入学しなおした人らしかった。
曰く、
――「学部はどちらですか?」ときかれて「理学部です」と答えると、ときに怪訝な顔をされることがある。「何について勉強されているのですか?」ときかれ、「量子のゆらぎについて考えています」などと答えると、ますます困惑される。
と――
ところが、
――「医学部です」と答えると、たいていは敬意のこもった応対を受ける。「何について勉強されているのですか?」などと、きかれることもない。怪訝な顔をされたり、困惑されたりすることもない。
という。
――この違いは、どうしたことか。
というのがエッセイの主旨であったようだが、結論部分は忘れてしまった。
この医学生の問題提起を、学問の社会性で切り取ることは、難しくない。
つまり、医学は社会性に溢れた学問だが、理学はそれほどでもないので、世間の敬意の度合いも違ってくる、という回答だ。
この回答には一理ある。
が、
(だから、どうした?)
という回答でもある。
実をいえば――
僕は、大学の医学部で学び始める直前まで、理学部への関心を保っていた。
入学願書を医学部に提出すると同時に、理学部へも提出した。
先に合格したほうに入学するつもりでいたのである。
結局、先に医学部に合格したので、医学生になった。
つまり、医学生になる前の僕にとっては――
医も理も、大した違いではなかったのである。
――医か理か、そんなことは問題ではない。
である。
そういう人間が、自分以外にも少なからずいることを、当時の僕は知っていたし、ここ数年の受験界事情も、ほぼ同じだと思っている。
この医学生は、自分が学問の社会性を重視していたことに、無自覚であったようだ。
自覚していれば、
――医か理か、それが問題だ。
などとは考えない。
この医学生が、話相手に怪訝な顔をされたり、困惑されたりしたわけは――
本当は学問の社会性を重視したいにも関わらず、理学部に在籍していた捩(ねじ)れが、根にあったのではないか。
自分のことは自分が一番わからない――
その証左の好例であろう。
たぶん、僕も人のことはいえない。