週末の街角を一人で歩いていたら――
突然、
(オレは今でも、自分が20歳くらいのつもりでいる)
と、今さらながらに痛感した。
実際は、今年で34になる。
直接の理由は、大したものではない。
通りを歩く20歳くらいの人たちをみて、
(あ、オレと同じくらいだ)
と感じ――
30歳くらいの人たちをみて、
(あ、オレより年上だ)
と感じ――
そんな漠然とした感覚を、曖昧なままで黙認している自分に――
気がついたからである。
人は、時の流れに鈍感だ。
いや――
むしろ、時の流れに常に鈍感であろうと、不毛に努力し続ける――
実に涙ぐましいくらい一生懸命に――
こうした努力は、意識的というよりは、無意識的であるようだ。
時の流れは濁流だから――
無意識のうちに感覚を麻痺させないと――
とても、やっていられなくなるのだろう。
少なくとも僕は、そうである。
こんな努力――
無意識的でなければ、やっていられない――
アホらしくて――
僕の意識は、多少なりとも理知的である。
が、そうはいっても――
もう少し楽に流されてやったほうが、よいのではないか。
時の濁流に、意識して身を任せるほうがよい。
もちろん――
濁流にのまれるのは恐ろしい。
流れの先に待っているものは――
死という名の滝壺である。
が――
濁流に抗(あらが)い、何とか踏みとどまろうとし続けても――
かえって苦しくなるだろう。
踏みとどまれているつもりなのは、所詮、本人だけだ。
実際には、他の人たちと同じように、着実に流されているのだし――
人は、死という名の滝壺に向かって、十分に意識的に流されていったほうが――
いくらかは幸せになれる気がする。
濁流には、意識して流されてやらないと、危険である。
それだけではない。
あとが大変だ。
アホらしい努力を、いつまでも繰り返そうとしてしまう。
時の濁流に、無意識のうちに抗い続けてしまう。
そのアホらしさに気づいたときには、目も当てられない。