人が花をみて、
――美しい。
と思う原理は――
よく考えたら、深淵である。
花とは、生殖器官である。
少なくとも生物学的には、そうだ。
つまり――
ヒトは、他種の生命体の生殖器官をみて、
――美しい。
と感じている。
あらゆる生殖器官を美しいと感じるわけではないことは――
自明であろう。
サクラの枝の下で酒を酌み交わすことはあっても――
キリンの股の下で酒を酌み交わすことはありえない――
たとえ、後ろ足で蹴飛ばされる危険性は無視できたとしても――
*
つまらないことをいった。
僕は、この問題を、結構、真面目に考えたいと思っている。
なぜヒトは植物の生殖器官に魅せられるのか――
生物進化論的な解を構築することは、それほど難しいことではあるまい。
植物の生殖器官に魅せられた個体が生存に有利だった可能性は十分に考えられる。
春に花を咲かせる植物は、秋に果実を結ぶ植物であったかもしれないわけだ。
つまり――
花を美しいと思う個体は、美しいとは思わない個体よりも、確実に秋の収穫を豊かにできた可能性がある。
厳しい冬を乗り切れる体力が養えたのかもしれない。
が――
僕が考えたいのは、そういうことではない。
現在のヒトは、花のことを、いかに美しいと感じているのか――である。
ヒトは心の内に意識を獲得している。
少なくとも僕の心の内には、意識が秘められている。
フロイトは、心を意識と無意識とに分離した。
花の美しさを、ヒトは意識で感じるのか、それとも無意識で感じるのか――
そこに、僕の関心は向かう。
生命体が、太古よりの進化の過程で、意識を獲得したことの意義を、いかに解釈するべきか――
花の美しさは、意識の原理を擦(こす)っているかもしれない。