マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

二十歳の頃は

 二十歳の頃の僕という男は――
 世の中には、基本的には、二種類のことしかないと考えていた。

 ――やりたいこと

 と、

 ――やりたくないこと

 との二種類である。

 だから――
 当時の僕は――
「やりたいこと」を、いかに手繰り寄せ――
「やりたくないこと」を、いかに放り出すか――
 そればかりを考えていた。

 ところが、実際には――
 そうした価値基準とは全く別に、

 ――やれること

 と、

 ――やれないこと

 とがある。

 少し理屈っぽくいえば――
 基本的には、

 ――やれるし、やりたいこと

 ――やれないけど、やりたいこと

 ――やれるけど、やりたくないこと

 ――やれないし、やりたくないこと

 の四種類だ。

 以上のことを――
 今の僕が二十歳の僕に説いたとすると――
 たぶん、

 ――考え方が後ろ向きすぎる。

 と文句を付けられたに違いない。
 やれるか、やれないかは愚問である――やりたいか、やりたくないか、それこそが大切だ、と――
 つまり、

 ――やりたくて、やれること

 ――やりたくても、やれないこと

 ――やりたくないけど、やれること

 ――やりたくなくて、やれないこと

 であるべきだ、と――

 こうした見方が――
 若さの所以(ゆえん)であろう。

 今の僕は、やりたいか、やりたくないかは、さほど重要ではないと思っている。

 なぜならば――
 やりたいことと、やりたくないこととが、次々と入れ替わる、という体験を――
 繰り返してきたからだ。

 人の心は、あてにはならないのである――
 たとえ、自分自身の心であっても――

 とはいえ――
 今の僕は、二十歳の僕の繰り出す文句を、はねつけたりはしない。

 ――若いうちは、やりたいことをドンドンやりなさいよ。

 という。

 たしかに――
 やりたいか、やりたくないかは、さほど重要ではないと思っている。

 が――
 二十歳の頃は、そうは容易に割り切れない、ということを――
 今の僕は知っている。

 あの頃は――
 やりたいから、やれるのであり――
 やりたくないから、やれないのである。