マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

失敗を受け入れる不快

 人の品性は、他人の失敗に、いかに対処するかで明らかになる。

 他人の失敗を一方的に責めるのは問題外だが――
 表立って責めることはしなくても、責める気持ちを心の内に密かに抱えていれば、それだけで十分に――
 その人は卑しい人である、と断じてよい。

 そういう人は、自分は失敗をしないと思っている。

 そこが問題なのだ。

 世の中に失敗をしない人など、一人もいない。

 なのに、自分は失敗をしないと本気で思っているということは、これまでの自分の失敗に全く気づいていない、ということである。
 あるいは、失敗を受け入れていない――

 人の品性が関わってくるのは、その辺であろう。
 すなわち、自分の失敗を受け入れるか否か、といった辺りである。

 失敗を受け入れたくない気持ちは、よくわかる。
 誰にとっても自分の失敗を認めるのは不快なことだ。

 そもそも、失敗と失敗とはいえないこととの境界も曖昧である。
 自分にとって失敗でないことが、他人にとっては失敗であるということが、しばしば起こる。
 そういう場合には、何が失敗で、何が失敗でないかを論じることすら、すでに不快の極みである。

 が、その不快を引き受ける覚悟が、人の品性を磨き上げる。

 不快な思いをした分だけ――
 人は貴くなれる――

 その人が常に尊くなろうと努めるのであれば――