人の性質は、自分が主人公の人生を送るかどうかで、二分できると思っている。
自分が主人公の人生を送る人は行為者で、自分が主人公の人生を送らない人は表現者である。
行為者とは、例えば、政治家であったり、スポーツ選手であったり、学者であったりする。
表現者とは、例えば、思想家であったり、映画監督であったり、教師であったりする。
学者が行為者で、教師が表現者で――という点には異論もあろうが――
厳密な考察は、今は措く。
そもそも、全ての表現者は行為もしているし、全ての行為者は表現もしている。
行為者と表現者とを画一的に分離するなどは、反現実の虚構的発想だ。
*
僕自身の話をする。
僕は、自分が表現者であると感じている。
政治家よりは思想家に親しみを覚えるし――
スポーツ選手よりは映画監督に憧れているし――
学者よりは教師が向いている。
ということは――
僕は、自分が主人公の人生は送らない方がよい、ということになる。
この結論に達したのは――
実は今日なのだが――
5年くらい前から、何となくはわかっていた。
自分が主人公でない人生とは、どういう人生であろう。
そういえば――
何年か前に、酒の席で、10歳くらい年下の女の子と話をしていて、
――自分が主人公じゃない人生なんてイヤなんです!
みたいに明言されたことがあるのだが――
例えば、そんな風に明言する女性と結婚する人生は、たぶん僕にはムリである。
僕は、気位が高いので――
そこまで惚れ込む女性に出会える確率は、ほぼゼロに違いない。
では――
同じように自分が主人公でない人生を送る人と結婚するべきなのか。
いや、そんなことでは結婚相手が物足りないに違いない。
では――
どうするのか。
ここで、ハタと思い当たった。
世の中には、たとえ天地がひっくり返っても結婚だけはしない、という人が、稀にいる。
なぜ、そこまで、かたくなになれるのか――
今までの僕は、これっぽっちも、わからなかった。
が――
もしかして、こういうことだったのか。
試みに、生涯独身の未来を思い描いてみたところ――
あまり愉快な気分にはなれなかった。
(さあて、いよいよ困ってきたぞ)
と、密かに頭を抱えていたりする。
どうやら――
僕は、結婚だけはしたいらしい。
自分の気持ちを逆説的に再確認した一日であった。