マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

死が甘美となるための

 死が甘美となるための条件を探っている。

 何が死に陶酔をもたらすのか?

     *

 現実の死が甘美であるわけがない。

 死に陶酔がもたらされるなら――
 それは、虚構においてのみであろう。

 この「虚構」の中には――
 現実が虚構と錯覚される場合も含まれる。

 だから――
 視点の主観によっては、現実の死も十分に甘美となりえよう。

 が――
 虚構だけが重要なのではない。

 例えば、特定の性癖の持ち主である男性にとっては――
 逃げまどう男の殺される物語が、十分に甘美となりえ――
 果敢に闘う少女が殺される物語は、全く甘美とはなりえない――
 ということが起こりうる。

 この違いは、どこからくるのか?

 結局のところ――
 その主観が抱く性愛の対象が何であるのか――
 ということに帰着されよう。

 可憐な美少女よりも、筋骨隆々の好青年に性愛を抱く男性であれば――
 少女の死よりも男の死のほうが、格段に甘美であることは、想像に難くない。

 ここでいう「性愛の対象」というのは、あくまでも――
 虚構における性愛の対象である。

 簡単にいえば――
 どういう物語の、どういう人物に色気を感じるか――
 ということである。

 ここで注意するべきは――
 物語に寄せる性愛の嗜好というものは、日常に見出す性愛の嗜好と全く同等か、それ以上の魔性を伴っている――
 ということである。

 このことは、ヒトを死に駆り立てるのは、あくまでも物語であって、日常ではないということに、大いに関連する。

 物語の性愛は、歪んでいて構わない。
 むしろ、歪んでいなければ、価値がない。

 まっすぐな性愛は、日常の些事でたくさんだ。