マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

慄然の根源

 昨日の新潟県中越沖地震が盛んに報道されている。

 TVなどで当地の状況を垣間みるに、
(人生、一寸先は闇だな)
 と慄然せざるをえない。

 僕は、たまたま仙台に暮らしていたので、今日は幸いにも昨日以前と変わらぬ生活が送れているわけだが――
 もし、震源地に近い町に暮らしていたら、今頃、『道草日記』を書く気分などにはなれなかったに違いない。

 こういう報道に触れていると、嫌でも考えてしまうことは――
 個々の人生の個別性である。

 あるいは、隔絶性といってもよい。

 ――人は、結局、自分の人生しか生きられない。

 ということだ。
 自分の人生を放り出し、他人の人生を生きることはできない。

 たとえ、今回のような大地震に遭って、どんなに自分の人生をメチャメチャにされても――
 その人生を放棄することはできない。

 現に、TVに登場する被災者のほとんどが、自分の人生を放棄したりはしていない。

 これは、凄いことである。

 彼岸の地に旅立っていった人々を見送るような気分がする。

 僕に、その覚悟が決められるだろうか。

 慄然の根源は、その辺にある。

 もしかしたら――
 ひと度、そんな状況に放り込まれてしまえば――
 覚悟は意外に簡単に決められるのかもしれない。

 が、それは希望的観測といってよい。