人に深みを与えるのは、その人の性質に含まれる非合理性の要素であろう、と思っている。
合理主義では片付けられない何か、のことだ。
最も端的な例は、
――医者の不養生
であろう。
あるいは、
――科学者なのに黒魔術に凝っている。
とか、
――銀行員なのにプライベートは浪費癖――
とか――
僕自身は、こうした非合理性を、なぜか、つい隠してしまうので――
しばしば、薄い人間にみられるらしい。
もしかしたら、『道草日記』の読者の方々の中には、
――何いってやがる! キサマのサイトは非合理性の塊じゃないか!
と失笑される向きが、あるかもしれないが――
少なくとも素の僕は、そうなのである。
困ったことに――
なぜか、素の僕は、自分の非合理性を巧く隠し通せてしまうようなのだ。
だからであろう――
何かの拍子に僕の非合理性が露(あらわ)になると、
――へえ! あんたにも、そんなところがあるんだあ!
などと驚かれてしまう。
(何いってんだい! オレは非合理性の塊だぜえい!)
というように、内心では毒づいているのだが――
それは、ともかく――
僕自身は、自分の非合理性を巧く開陳できないでいるために――
せめて、人の非合理性には敏感になろうと、思っている。
相手の非合理性に敏感になって――
できれば、そうした要素を、なるべくポジティブにとらえようと努力する。
そうすることが、その人を好きになるための――こういうのが口幅ったければ、せめて、嫌いにならないための――第一歩ではなかろうか。
人の非合理性というのは、面白い。
人の人たるゆえんが、濃密に凝縮されている。