マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

笑えばいい

 笑いというものは――
 ときに、凶器になる。

 それをリアルに理解するか、しないかで――
 その人の人間観や人生観は、大きく変わってくるであろう。

     *

 僕の母は、他人に笑われることに耐えられない人だ。

 自分は普通にしているつもりなのに――
 なぜか周りはクスクスと笑っている――
 訳をきいても、教えてくれない――

 そういう経験を、若い頃に、たくさんやって――
 そこから、次第に人間不信に陥っていき――

 息子の僕にいわせれば――

 結局――
 その後は、一切、他人を信じようとしない人になった。

 もちろん――
 笑われる原因は母にあった――あったはずだ。

 その素因を、僕も受け継いでいるので――
 よくわかる。

 が、そういう僕を笑う人たちがいる一方で――
 笑わないでいる人たちも、いるのである。

 笑われないということが、どんなにありがたいことか――

 ただ、それだけで、ありがたい――

 そういう経験は――
 たぶん、そういう経験をしたことがない人には、ひどく無価値に思えるに違いない。

 が、僕にとっては、無価値では決してない。

     *

 僕は、母のような人間不信には陥らなかった。

 それは、10代や20代の頃に、僕を笑う人たちと同じくらいに、僕を笑わないでいた人たちが、いたからだ。

 笑わないでいるということは――
 温かく見守っている、ということとは異なる。

 笑わないで、怒ったり――
 笑わないで、嘲ったり――

 そのほうが、楽なのである。

 怒りや嘲りは――
 所詮、笑いほどの凶器には、なりえぬものだ。

 笑うべきか笑わぬべきか――

 迷ったときには――
 笑わずにいるのが無難である――
 もしも、誰かを、少しでも傷付けたくないと願うなら――

     *

 僕の母を傷付けるのは簡単だ。

 笑えばいい。

 笑うことで――
 深刻に傷付けることができる。

 だから――
 母を深刻に傷付けようと思うとき――
 僕は笑う。

 そうせずにはいられないとき――
 僕は母を笑う。

 逆も、また然りーー
 母の笑いは容赦なく辛辣だ。

 もっとも――
 本人たちは、その傷を自覚できぬほどに、すっかり慣れているようだ。

 そういう親子も、世の中にはある。