マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

人が小説を読むとき

 人は、どういうときに小説を読むのだろう?
 この問いが頭を離れない。

 試みに――
 この前、読んだ小説のことを、思い出してみた。

 桐野夏生さん『残虐記』(新潮文庫)である。

 この作品は、主人公の回想文という形式をとる。
 主人公の女流作家は、10歳で男に誘拐され、1年ほど監禁された過去をもつ。
 男は、25年後に手紙を出した。
 それを読んだ女流作家は、回想文を残し、失踪する。

 この小説に惹かれた理由は、第一に題名であった。

 ――残虐記

 である。

 桐野さんは女性だ。
 女性に、このように直裁的に表現されると、
(おや、なんだろう?)
 と思ってしまう。

 第二に設定だ。
 まだ少女だった自分を誘拐し、監禁した男からの手紙――
 それを受け取り、長大な回想文を残して姿を消した35歳の女流作家――

 35歳という年齢が、絶妙に感じられた。
 25歳でも45歳でもなく、35歳――

 僕の場合――
 この時点で、すでに小説を満喫し終えている。

 この後、実際に読み進め、物語の展開を追うことは、さほど重要ではない。
 むしろ、自分なら、どんな物語に膨らませるか――そこが気になってしまう。

 事実、気になった。

 桐野さんの『残虐記』を読み進めながら――
 僕は、自分の『残虐記』を模索した。

 だから、思うのである――
 人は、どういうときに小説を読むのか、と――

 どういうときに書くのか、なら簡単なのだ。

 ――書きたくなったとき――

 である。
 他に理由はなかろう。

 が、読むときは、そうではない。
 少なくとも僕は、そうだ。

 映画をみたいと思うことはあっても、小説を読みたいと思うことはない。
 強いていえば、

 ――小説を書くほどには元気がないとき――

 ――自分の小説に飽きてしまったとき――

 ――ほんの気まぐれを起こしたとき――

 ――どうしても読まなければならないとき――

 である。
 だから、たいていは、読んでいるうちにイヤになってくる。
 自分の小説が書きたくなる。

 小説を書く人が小説を読みたいと思うことは、基本的には、ないのではないか。
 人が小説を読みたいと思うときとは、小説を書きたいと思うときではないか。

 書けるのなら、読むことはない。
 書けないのなら、読むしかない。

 以上は、僕の仮説である。