マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

安倍に近衛や東条の影をみる

 今日の安倍氏の辞意表明については――
 今さら論じる気にもなれない。

 強いていえば、

 ――お粗末

 の一言に尽きる。

 辞意表明が「お粗末」というよりも――
 政権首班としての資質がお粗末である、ということだ。

 安倍氏の資質については、就任当初から、否定的にみていた。
 2006年12月17日の『道草日記』でも、

 ――安倍は宰相の器にあらず。

 と断じていた。
 報道が伝える日頃の言動に注意すれば、容易に感じ取れることであった。

 ここで、どうしても言及しておきたいことは――
 今回の安倍氏の体たらくには、戦前の日本を誤って導いた政治家たちの面影が重なるということである。

 例えば、近衛文磨や東条英機といった政治家たちである。

 歴史が語るところによれば――
 近衛も東条も政権首班としての資質に欠けていた。

 近衛は、その施政方針の根幹がみえにくかった。
 たぶん、本人の政治家としての意思がブレていた。

 東条は、組織に忠実なだけの軍人であった。
 たぶん、軍事と政治との区別もついていなかった。

 いずれも、民意に厳しく晒される今の世の中では、政権首班の座に着くこともできぬ者たちであった。

 幸か不幸か――
 安倍氏は、2人ほどではなかった。

 だから、首相になれた。

 が、荷が重すぎた。
 近衛や東条のように、一国の舵取りの重責に喘いでいた。

 戦前ならば――
 安倍氏も、あと1、2年は舵を取れたはずである。

 そして、この国を取り返しのつかぬ方へ導いたであろう。
 近衛や東条が、そうであったように――

 そうはならなかったのは、7月の参院選のお陰である。
 あれで、この国は救われた。

 安倍氏のいう「戦後レジーム」が、この国の今を救ったのである。
 もし、安倍氏のいうままに「戦後レジーム」から脱却していたら、この国は、戦前と同種の過ちを犯していたに違いない。

戦後レジーム」は言葉が悪いだけである。
「レジーム」は、しばしば貶(けな)しの意味で使われる。

「戦後体制」と呼べばよい。

 戦後体制は、決して悪いものではなかった。
 そのことは、今回の顛末で明瞭に示されたといえる。

 安倍氏は戦後体制に愚かな闘いを挑み、この国の民に時を浪費させた。
 ドン・キホーテに準(なぞら)えるのも憚(はばか)られる。

 ――お粗末

 というのは、そういうことだ。