マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

日本が信じられない

 今の僕の日頃の言動(発言や行動)を規定しているのは――思わず笑っちゃうくらいに突拍子もない話だが――
 戦前・戦中の日本――太平洋戦争(大東亜戦争)当時の日本――
 である。

「既定している」というのは――
 以前から『道草日記』をご覧の方は容易に察しがつけられようが――
 反面教師として既定している――
 ということだ。

 ちなみに――
「日本」というのは、当時の政府や軍部だけをさすのではない。

 ――集団としての日本人

 あるいは、

 ――日本という文化圏

 をさす。

 僕は、アチコチで、しょっちゅう、半ば確信犯的に、他人と衝突を起こしているのだが――
 なぜ衝突したのかを個々に冷静に分析してみると――
 衝突した相手と自分との間に、意識の差があるように思われる。

 その差とは――
 戦前・戦中の日本への批判的な眼差しの有無――あるいは、その眼差しの熱気の程度――である。

 僕は、戦前・戦中の日本を全否定するものではない。
 そんなことは不可能だ。

 かくいう僕の心身の中にも、戦前・戦中の日本の残像はある。
 それは否定しようがない。

 だからこそ、戦前・戦中の日本へ熱い批判の眼差しを向けねばならぬと思っている――
 自分で同じ過ちを繰り返さぬために――

 こうした態度の源泉は――
 小学生の頃の原体験――いや、幼児の頃の原体験だ。

 当時、母が僕に語って聞かせた物語の中には、

 ――戦争

 が含まれていた。
 しかも、虚構としての戦争ではなく、現実としての戦争――歴史としての戦争である。

 その戦争を、母は「第二次世界大戦」や「太平洋戦争」と呼び、決して「大東亜戦争」とは呼ばなかったのだが――
 それは、ともかく――
 この幼児体験が、今の僕に強烈に効いている。

 日本のダメなところを徹底的に反省する、という姿勢は――
 この原体験に根差しているのであろう。

 僕は、なぜか幼児の頃に、

 ――あの戦争を2度と起こしてはならぬ。

 というような使命を抱え込んでいたわけだ――
 何も知らずに――

 それは、母親の一般的な祈りとしては、よくわかる。
 母は、息子の僕を戦争で亡くしたくなかっただけだ。

 が――
 やはり、行き過ぎではあったろう。

 結果として、今の僕は日本を信じていない。
 信じたいのだが、信じきれていない。

 僕の言動に腹を立てる人々は、そこを喝破しているのだと思う。