闘う少女に魅せられている――と告白したところで――
年来の『道草日記』の読者の方々にとっては、大した驚きにはなりえまい。
すでに何度も『道草日記』に書いていることである。
では――
なぜ僕は闘う少女に魅せられるのか。
――そんなの、小児期の刷り込みに決まってる!
というのは、たぶん的を射た答えである。
たしかに、それは小児期の刷り込みに違いないのだが――
では――
なぜ、その刷り込みが今も維持されているのだろうか。
足掛け20年である。
この期間は決して短くはない。
この疑問について、今日、一つの結論に達したので――
ここに記しておく。
*
少女は、いかなるときに闘うか。
答えは、
――否
である。
――そもそも少女は闘わない。
と――
未来永劫、闘わない――
少女が少女をやめぬうちには――
少女が闘うとき――
それは、少女が少女をやめるときである。
では――
どういうときに、少女は少女をやめるのか。
最も端的な例は――
子を孕み、子を産むときであろう。
少女が少女をやめて母になるときに――
少女は初めて闘い始める――やがて生まれ来る我が子のために――
ということは――
闘う少女に魅せられる僕は、いったい何に魅せられているのか。
母の姿に魅せられている?
そうかもしれない。
が、それは、三十路も半ばの男の立場では、ちょっと受け入れたくない解釈だ。
(つまり、それって、ただの「マザコン」ってことじゃんか!)
というわけである。
もっとも、それだけに真実味があるといえなくもない。
真実とは、たいてい受け入れがたいものである。
もう一つの解釈は、
――母に魅せられている。
ではなくて、
――母になっていくところに魅せられている。
というものだ。
これだと、マザー・コンプレックスの嘲弄は免れる。
(つまり、それって結婚願望ってことでしょ)
で済むからだ。
男が妻をめとり、首尾よく子を授かれば――
自分の妻が母となっていくところを、間近でみることができる。
そのために、男は――というより、僕は――結婚を望んでいる――
それこそ、僕が闘う少女に魅せられる理由に違いない、と――
まあ、これなら、多少は受け入れてもいいのかな。
つまり――
僕が闘う少女に魅せられるわけ――
それは、結局、ただの結婚願望にすぎないのだ、と――
いや――
これだって十分に受け入れがたい真実ではあるか。