「わたし」といわせるか、「あたし」といわせるか――
そこが一つの分岐点となる。
小説の話だ。
女性キャラクターの造形についてである。
女性が「わたし」と自称するか「あたし」と自称するかで、周りが受ける印象は、ずいぶんと変わってくる。
「わたし」だと、何やら理知的で清楚な印象を与え、「あたし」だと、何やら直情的で気侭(きまま)な印象を与える。
だから、通常、「わたし」は「私」と表記され、「あたし」は「アタシ」などと表記される。
が――
「わたし」と「あたし」とで、本当に、そんなに違うものなのか。
現実の女性をみてみると――
同じ女性が「わたし」と「あたし」とを使い分けていることが多い。
時や場によって「わたし」であったり「あたし」であったりする。
だから――
「わたし」と「あたし」との狭間には、本当は何もない。
それらを受け止める側の主観が、勝手に峻別しているにすぎない。
つまり――
女性が「あたし」といっているのに、それを受け止めた男は「わたし」だと思っている――
ということが、多分にある。
ということは――
作者が自分の造型する女性キャラクターに「わたし」と自称させるのか「あたし」と自称させるのかで示されていることというのは――
その女性キャラクターが、作者によって、どのように受け止められているのか、ということであろう。
つまり、「わたし」と「あたし」との狭間にあるものは――
作者の、その女性キャラクターへの眼差しである。
このことは、男性キャラクターの「ぼく」や「おれ」にも、当てはめられよう。
ただし、こちらは、男の僕にとっては、あまり触れたくない話題だ。
例えば、僕は『道草日記』の中で「ぼく」と自称しているが――
それが何を意味するかなどについては、あまり分析したくない。
もちろん、『道草日記』は小説ではないにせよ、だ。