僕が小学生であったとき――
サッカーでオリンピック本大会に出場するのは至難の業とされていた。
昔、メキシコのオリンピックで銅メダルを取ったことはあるらしいが――
そんなのは、いにしえの伝説であった。
それが――
変われば変わるものである。
*
今夕、サッカーの日本オリンピック代表チームは、東京の国立競技場で、サウジアラビアのオリンピック代表チームと対戦する。
日本にとっては、オリンピック4大会連続出場をかけての大一番だ。
勝ったほうが出場できる。
引き分けならば日本だ――これまでの予選リーグの戦績は、日本がサウジアラビアを上回っているからである。
が、そのようなことは、いい。
僕が気になったのは、今夕の大一番が、
――オリンピック4大会連続出場をかけて――
であることだ。
(こんなことって、あるんだな)
と――
それは、一言でいえば、
――隔世の感
である。
僕が小学生であった頃は、たしかに、
――オリンピックは夢のまた夢――
であったのだ。
なのに――
4大会連続出場が手に届く距離にある。
ここで僕が話題にしたいのは――
例えば、Jリーグの発足以降、日本のサッカー界が、いかに選手たちのテクニックやメンタリティーを向上させてきたか、というようなことではない。
純粋に、時代が大きく変わったことの一つの例として――
これを話題にしたいのである。
*
僕が小学生であった頃、自分の親の世代たちから、何度もいわれたことは、
――あなたたちは本当に良い時代に生まれた。
というものであった。
たしかに、高度経済成長期以前を知っている人々にとって、それ以後しか知らぬ僕らのような世代の存在は、それ自体が、
――隔世の感
であったに違いない。
今の僕には――
サッカーの日本オリンピック代表チームが、そうである。
あのチームの存在自体が、隔世の感なのだ。
それは、有無をいわせぬ説得力をもっている。
時代は常に激しく変わっていくものであるという真理の断片として、不気味な異彩を放っている。
この異彩に触れるとき――
人は我が身の儚さを知りえよう。
時代という奔流に押し流される木の葉がごとき我が身の儚さを――
僕が小学生であったときに――
たぶん、僕らの存在も似たような異彩を放っていたに違いない。
その生々しさは、TVでみるサッカー・チームの比ではなかったはずだ。
――あなたたちは本当に良い時代に生まれた。
には、そのような含みが隠されていたのではなかったか。