美しさの基準というものは――
実に、夢幻が如きである。
何かを美しいと感じることは――
つまるところ、それを感じる主観の身勝手に違いない。
例えば、僕は女性の体をこの上なく美しいと感じるのだが――
それはたぶん、女性も僕も、ヒトという生物種に属するからであって――
もし、僕が草原を駆け回る野ブタであれば、女性の体を美しいとは感じぬであろう。
もちろん、草原を駆け回る野ブタのメスをみても、とくに美しいとは感じない――
少なくとも、ヒトの女性の体に感じられるような美しさは、感じない。
であるならば――
ヒトである僕が、同じヒトである女性の体に感じる美しさというのは、いったい何なのか?
何か普遍的な価値などを持ちうるのだろうか?
それは、厳密には、僕にとってしか意味をなさぬ美しさ、としかいいようがなかろう。
僕自身による僕自身のための身勝手な美しさである。
以上のような議論は、古来より、数多の哲学者たちによって、散々に論じられてきたことだ。
今さら僕が付け加えることは何もない。
が、それでも僕は、ここにこだわりたい。
ここを自分の審美の出発点と定めたい。
僕が美しいと感じることは、所詮、僕の恣意の結果にすぎぬのだ、と――
僕が感じる美しさについては、他者に同意を求めてはならぬのだ、と――
ここを出発点にせぬのなら――
僕は美しさについては語れない。
例えば――
女性の体についても語れない。
そんな事態はゴメンである。