マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

僕が涙を流すとき

 僕が誰かのために涙を流すときというのは――
 結局は自己憐愍のときである。

 悲しい目にあった人をみて自らも涙を流すときは――
 その悲しい目にあった自分を想像し、涙を流している。

 自分のこととは無関係に涙を流すということは――
 僕には、どうしてもできない。

 自己憐愍でしか涙を流せないというのは――
 幼い頃からそうであった。

 祖父が亡くなったときも、父が亡くなったときも、祖母が亡くなったときも、僕は涙を流していない。

 涙を流しそうになって、やめた。
 胸中の自己憐愍を意識してしまったからである。

 こう書くと、人非人にみられるだろうから――
 今日まで白状したことはない。

 今日が初めてである。

 なぜ白状する気になったかといえば――

(自己憐愍だって、おおいに結構――)
 みたいな気持ちに、なれたからだ。

 例えば、親しい人が亡くなったときに涙を流すのは――
 やがて自分も、その親しかった人と同じように、いつかは、この世を去ることが自明だからである。

 その自明性を実感するからである。

 そのいつかは――
 30年後かもしれないし――
 10ヶ月後かもしれないし――
 30日後かもしれないし――
 10時間後かもしれない。

 そう思えば、涙も流れてくる。

 人は儚い。