マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

超一流の業績を残している人は

 昨夜は久しぶりに時間があったので、TVをみた。
 NHKの『ドキュメント“考える”』という番組である。

 作家の石田衣良さんが、48時間以内に解決せねばならぬミッションに挑んだ。
 その解決の過程を綿密に取材することによって、石田さんの思考や思索の独創性に迫ろうとする番組である。
 そのミッションとは、

 ――自殺願望をもつ少女が自殺を思いとどまるような童話を書け。

 というもの――

 ただし、無作為に選んだ3つの言葉を必ず使わねばならない。
 その言葉は、

 ――ガチョウ、草書、光学

 の3つである。

 かなり厳しい縛りのかかったミッションだと思うが――
 そこは直木賞作家の石田さんである。

 見事な技巧の童話を作り上げていた。

(これは、すごい)
 と、自然、感じ入っていた。

 ところで――

     *

 本番組は作家業に焦点を合わせてはいない。

 各界で超一流の業績を残している人が、思考的ないし思索的に困難なミッションに、いかに取り組むのか――
 その例として、作家業が選ばれているにすぎない。

 石田さんは、自分の内面世界を2つにわけていた。
 意識と無意識とである。

 つまり、自分は2人いると考える――
 意識の自分と無意識の自分とである。

「無意識の自分」のことを、石田さんは、「彼」と呼ぶ。
 例えば、小説を書く上で何かに行き詰まったとすると、まず「意識の自分」が問題点を整理する。
 次いで、それらを「彼」に預ける。
 すると、あとは「彼」が勝手に答えを持ってきてくれる。

 そういうものらしい。

 つまり、石田さんにとっての小説の執筆とは――
「彼」と「意識の自分」との共同作業であるわけだ。

 その感覚は、僕にも、よくわかった。
 たしかに、僕の場合も、石田さんが呼ぶところの「彼」の助力が必須だ。
「彼」の助力なかったら、小説などは書けやしない。

 ――共同作業

 というのは、言い得て妙である。

 が、今日、僕が『道草日記』に記しておきたいことは――
 以上のようなことではない。

 実をいうと――

     *

 僕は、石田さんには好感をもっていなかった。

 理由は、TVのコメンテーターとしての発言内容である。
 深みがない。
 確たる知識や精緻な理解に根差した説得力がない、という意味である。

 例えば、今回のミッションでも――
 自殺願望をもつ少女に向けて書くのだから、まず自殺願望の在り方を精緻に理解せねば話は進まぬはずなのに――
 そこへの関心が浅い。

 自殺願望については通り一遍の理解で済ませてしまっている。

 だからであろう。
 番組の末尾では、石田さんの童話を読んだ女子生徒が、

 ――これでは自殺を思いとどまったりはしないと思う。

 と、かなり手厳しい意見をいっていた。

 僕も、そう思う。
 技巧的には優れているが、やはり深みに欠ける。

 石田さんの童話の主人公は、自殺願望をもつ少女であったのだが――
 いつも一緒にいたガチョウが目の前で死ぬのをみて、自殺を思いとどまるきっかけを得るという展開である。

 これでは、思いとどまることはなく――
 むしろ、かえって自殺願望を強くするであろう。

 ところが――
 こうした石田さんの深みのなさが、石田さんの印象を悪くしたかというと、そうでもない。

 むしろ、良くした。

 石田さんの深みのなさは、小説の執筆の現場では、むしろ絶大な威力を発揮しているような気がしたのである。

 例えば、今回のミッションで、

 ――自殺願望とはなんぞや?

 と悩みだしたら、とても48時間で書き上げることは難しかったろう。
 とくに、売れっ子の石田さんのことである。
 ただの48時間ではない――週刊誌の取材や他のTV番組の収録や連載小説の執筆などを抱えながらの48時間である。

 つまり、石田さんの深みのなさは、小説を書く瞬発力が研ぎ澄まされた結果である可能性がある。
 深みがないから、技巧が洗練されていく――そこを浅慮と見誤ってはならない。
 深みのなさは、おそらくは確信犯である。

 超一流の業績を残している人は、ひと味ちがう。