マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

仏教でいうところの「悟り」とは

 仏教でいうところの「悟り」とは――
 結局のところ、

 ――自分の今の人生と向き合うことが最大の喜びである。

 と痛感することに他ならぬのではないか。

 ポイントは、

 ――今の人生

 にある――「今」であって「将来」ではない。
「将来の人生」は、さほど重要ではないのである。

 とはいえ――
 人間、誰しも、若い頃には「今の人生」だけを考えるわけにはいかない。

 若い頃には、有形・無形の財の蓄えが何もないので――
「今の人生」だけを考えていると、将来、必ず後悔をする。

 が――
 ある程度、歳をとって、ある程度の蓄えを手にしたら、すぐにでも自分の「今の人生」と向き合うのがよい。

 もし、自分の「将来の人生」のことについてばかり考えていて、いつまでもたっても、有形・無形の財を蓄え続けようとする者がいたら――
 その者は、たぶん、自分の人生が、この先も未来永劫、続くものだと錯覚しているのだろう。

 それは、それで、幸せなことではあるが――
 人間、いつかは皆、死ぬ身である。

 死ぬまでの間に、その錯覚に気付く確率のほうが、遥かに高いに違いない。

 だからこそ――
「悟り」というキーワードが生まれた。

 そのような錯覚から自由になる意義を、世に問いかけているキーワードである。

 仏教だから「悟り」という。

 キリスト教なら――
 何か、それに相当する別の言葉があるのであろう。

 たぶん、「悟り」とは全く違った言葉であろうが――
 それは、背景にある宗教的世界観が全く違うので、やむを得ぬことである。

 もちろん――
 イスラム教やヒンズー教についても、同じことがいえるに違いない。

 けだし、種々の宗教の目指すところは、同じ高みの頂きである。