マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

苛立ちの制御

 養老孟司さんの仰る「バカの壁」は、決して、

 ――バカが築く壁

 のことではないと思う。
バカの壁」とは、バカと、そうでない人とを隔てる壁のようなもの――ではない。
 バカが無意識に前面に押し出してしまう盾のようなもの――でもない。

 現在、僕が理解している「バカの壁」というのは、人なら誰しもとらわれてしまう偏見や固執である。
 その前提として、

 ――人がバカかどうかは相対的な概念であり、どんな賢人であっても、ある人からみれば、バカにみえうる。

 という原理が想定されているように思う。

 だから、

 ――あいつはバカだから「バカの壁」を築いちゃってるのさ!

 という話にはならない。
バカの壁」は、本人はもちろんのこと、別のある人にとっても、みえたりみえなかったりするものだ。

 その「バカの壁」を崩すには、常に、自分を疑うしかない。
 自分を疑うとは、決めつけをせず、視野を広げ、地道に対話を続けるということである。

 対話の相手は、人がよい。
 たしかに、書物が相手であっても、ある程度の実りはえられよう。

 が、書物は文字として固定されている。
 一度、固定されたら最後、未来永劫、変化しない。

 それに対し、人は目まぐるしく変化する。
 ときに1分1秒の単位で変化する。

 だから、自分を疑う契機をつかむには、人との対話のほうが好都合であろう。

 人を相手にするのを嫌う人がいる。

 たしかに、人は常に変化するものだから――
 人との対話は、すぐに疲れてしまう。

 疲れ、ときに容易なことで苛立ちうる。

 が、自分を疑うには、その苛立ちも含めて、上手に制御するのが効率的だ。

 僕は、少年時代、瞬間湯沸かし器であった。
 すぐにヒステリックに喚いていた。

 そんな自分が大嫌いであった。

 今は、逆に、

 ――無神経だ。

 などと悪口をいわれるくらいに――
 苛立ちを抑え込むことができている。

 変われば変わるものだと、内心、密かに呆れ返っている。

 本当は――
 人のいないところでは、今も少年時代に負けず劣らずの勢いで、苛立っているのだが――
 その苛立ちを、あからさまには、みせたくない。

 みせるだけ損である。

 苛立ちは、自分にとっても相手にとっても、非建設的な副作用である。

 自分や相手の苛立ちを、単なるシグナルとして受け止める――
 それが、苛立ちを制御するコツである。