偽悪か露悪か――
それが問題である。
偽悪であれば、実際には自身にはない悪を捻り出していることになる。
例えば、善良な俳優さんがドラマで極悪人を演じるようなことである。
露悪であれば、実際に自身に含まれている悪を曝け出すことになる。
例えば、犯罪者が自分のブログで犯罪の経緯を報告するようなことである。
いわゆる大型掲示板サイトで、著しく不謹慎であり、かつ下品きわまりない書き込みを目にすることは、別段、珍しくもないが――
その書き込みが偽悪の結果であるならば、
(まあ、そういう手の込んだ遊びがあってもいいか)
くらいに思える。
が――
仮に、露悪であるならば、
(おいおい、ちょっと待てよ)
となる。
もちろん――
僕も含めて、そういうサイトを覗きみる人間に、露悪を糾弾する資格があるとは思えないが――
ややこしいのは――
露悪を装っていると思われる偽悪があることだ。
ひょっとすると――
偽悪を装った露悪も、あるかもしれない。
僕は、しばしば偽悪的であろうとする。
自分にない悪を捻り出し、それを殊更に見せびらかそうとしている。
おそらく、小説書きは、多かれ少なかれ、皆、そういうものであろう。
が、僕は露悪的にはなれない。
少なくとも、意識して露悪的にはなれない。
だからといって――
僕が悪を抱えていない、ということではない。
事実、僕は、たくさんの悪を抱えているが――
それを意識して曝け出す気には、ちょっとなれない。
なぜ、だろう。
単に勇気がないだけか。
よくわからないが、
――そんなことをしても、誰も喜ばないと思うから――
というのが、意外と正直な気持ちである。
誰が好きこのんで悪をみたがるか――
ナマの剥き出しの悪を――
露悪は娯楽にはなりえない。
偽善はなりえても――