理と対する言葉を探すとしたら――
情であろう。
――人は理だけではダメで、情も必要だ。
などといわれる。
*
理と情とについて――
もう、ずいぶん長いこと、考えている。
というのは、
(情の必要性が、どうも、よくわからない)
と思うからだ。
正確には、
(理の必要性を重視しすぎることの弊害が、わからない)
である。
理とは、人がヒトとして進化してきた過程で、人によって獲得されてきた能力である。
もちろん、情とて、人がヒトとしての進化の過程で獲得されてきた能力であろうが――
たぶん、理よりも遥かに原初のレベルで、獲得されたものだ。
よって、
――理は情を制するために獲得された。
とみることができよう。
少なくとも僕は、そう考えている。
情は、個人が生を営む上では、有用かもしれない。
が――
社会に適応していく上では、有害であることが多い。
有用なのは、むしろ、理のほうだ。
なぜならば――
社会における自分以外の構成員の多くは(家族や友人などを除き)情を通わすことが困難ないし不要であって――
そういった構成員と巧く付き合っていくには、理を通わせることのほうが、より容易で効果的であるためだ。
ただし、理を適切に通わせるためには、情の制し方としての理に熟達しておく必要がある。
これが、たぶん恐ろしく難しいことである。
例えば、徳の高い僧などは、そうした理に、かなり熟達しているものであるが――
彼らは、若い頃から厳しい修行を積み重ね、心を鍛錬してきている。
ちょっと凡人には真似のできぬ域に達してしまっていることも、決して珍しくはない。
むしろ、凡人が、そうした僧たちをみて、
――あんた、鈍いよ!
と逆恨みしかねぬくらいだ。
理で情を制する人は、一見、鈍くみえる。
思うに――
本来、鈍い人などは、この世に存在しない。
いるのは、鈍いように装っている人だ。
そのように装う理由は様々にあろう。
徳の高い僧のように、他者を救うという明確な意図をもっている場合もあろうし――
凶悪な犯罪者のように、自分勝手で世俗的な意図をもっている場合もあろう。
そうした人々は、生来、鈍いのではない。
敏感の殻を脱ぎ捨てた結果、そうなった。
例えば、病気などで心身がともにまいっているような人は、何事についても、恐ろしく敏感である。
おそらく、心に余裕がなくなっているので、鈍いように装うことができないのだ。
理が情を制しきれていない状態といってもよい。
敏感な人というのは、単に、情に振り回されているだけなのかもしれない。
この状態が、ヒトとしての人のナマの姿ではないのか。
もし、そうであるならば――
情の必要性を殊更に取り扱う益はない。
むしろ、情を制する理のほうが、数倍も大切だ、という話になる。
喩えるならば――
古来より氾濫を繰り返してきた大河の濁流に、何か必要性を見いだせるだろうか。
もちろん、肥沃な大地の形成には役立ったかもしれないが――
所詮、その程度であろう。
一方、大河の濁流を制する治水技術には、多大なる必要性が見いだせる。
治水は人類の積年の課題であった。
つまり――
情とは、必要とされているものではない。
単に、そこにあるもの――
ただ、どうしようもなく、受け入れざるをえぬもの――
それが、情である。