ヒトの、
――人らしい社会性の獲得
の次に起こりうる“劇的な進化”として、
――人らしからぬ厳密性の獲得
が挙げられるのではないか、ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
その「厳密性」の具体的な内容として、
――記号や数値の操作が、それなりに膨大かつ緻密に行えるようになること
や、
――思考の展開や知覚の処理を、感情の影響から切り離せるようになること
を挙げました。
ここで留意をするべきは、
――そうした厳密性は、おそらく、既存の“人らしい社会性”を弱めたり損なわせたりするものではない。
ということです。
“人らしい社会性”を弱めたり損なわせたりする厳密性というのも、数多く考えられます。
例えば、
――言葉を一意的に細かく定義づけすること
や、
――互いに矛盾する感情を共存させないこと
なども「厳密性」といえます。
が――
このような厳密性は、社会性を弱めると考えられます。
もし、ヒトの個体の一つひとつが、豊潤ながらも細密な言語体系をもっていたら、意思疎通の停滞を頻繁にきたすでしょう。
――その言葉を、あなたはそういう意味で使っているが、私は、こういう意味で使うことにしているのだ。
といった次元の照会だけで、議論の大半が終わってしまうに違いありません。
また――
もし、ヒトの個体の一つひとつが、同一時点で1種類の感情しかもたなかったら、心理的な共鳴は起こりにくくなるでしょう。
――3分前の私なら、今のあなたと共感しあえただろう。しかし、今の私は今のあなたと共感しあえない。
といった次元の応酬だけで、交流の大半が終わってしまうに違いありません。
このような方向性での“人らしからぬ厳密性”が備わったところで――
生物種としての生存が有利になるとは、とうてい思えません。
生物種としての生存が有利になるためには、“人らしい社会性”を支持し、促進しうる方向性であることが必要です。
例えば、議論を建設的にしたり、交流を効率的にしたりするような方向性です。
相異なる複数の前提から同時に論理を組み立てる能力とか、現在の感情を意識下に留保したままで過去の感情を意識下に再生する能力とか――
つまり、
――“人らしい社会性の獲得”の次に起こる“人らしからぬ厳密性の獲得”――
というときに――
その「厳密性」は、
――社会性に対して相補的である厳密性
という意味です。
――人らしからぬ厳密性
というときの「人らしからぬ」は、
――超人的
という意味であって、
――非人的
という意味ではありません。