――空気をよむ。
という表現が好きではない。
例えば、誰かが、大勢の人々の前で、何か場違いな発言をしてしまったときに――
それを半ば冗談っぽく咎め立てるようにして、
――空気よめよ~!
と畳み掛けるような言い方が、好きではない。
念のために言い添えると、
――空気をよむ。
という概念は重要だと思っている。
それは「人間の言語化されえぬメッセージ性に敏感になる」ということだ。
言語を越えたコミュニケーションも、言語的なコミュニケーションと同様に、重要である。
人を人たらしめるファクターの一つである。
よって、
――空気をよむ。
という意図は、実に人間らしいアイディアだと思う。
が、そうであれば、単に、
――雰囲気をよむ。
でよい。
わざわざ「空気」という比喩表現を持ち出す必然はない。
もしかしたら――
語感の問題かもしれない。
たしかに、「雰囲気」よりは「空気」のほうが声に出していいやすい。
が、そうであっても、
――空気をよむ。
という表現には違和感を覚える。
少なくとも、誰かを茶化して責め立てる勢いで、
――空気よめよ~。
などという言い方は、気に喰わない。
本当の意味で「空気をよむ」のであれば――
そのような言い方は、できぬはずである。
世の中には、生来、「空気をよむ」という意図を抱けぬ人々がいる。
そういう徴候を「脳の高次機能障害」と解釈する向きもある。
ある種の自閉症で、よくみられるらしい。
そういう人々に向かって、
――空気よめよ~。
ということは――
何らかの理由で視力障害を負った人に、
――しっかりみろよ~。
と、いっているに等しい。
これほどデリカシーに欠ける言葉は、ないといってよいであろう。
――KY(ケイワイ)
も同様である。
世間では、「空気がよめない人」のことを「KY = Kuuki ga Yomenai」と縮めて称するようだが――
これも、視力障害のある人を不しつけに指し示す隠語に等しい。