化粧品の広告をみていたら――
なんだか、わけがわからなくなった。
困惑したのである。
広告に登場している女性たちの容姿や姿体に、ある種の色気のようなものを感じたのだが――
それは、あくまでも「色気のようなもの」であって、「色気」ではなかった。
少なくとも僕にとっては、そうであった。
(なんなんだ、これは?)
と思った。
僕の困惑の源は、「色気のようなもの」の正体にあったのではない。
むしろ、「色気ではない」という確信にあった。
(なんで僕は、これを「色気ではない」と確信してるんだろう?)
ということである。
ちょっと考え――
すぐにわかった。
それは、
(ああ、僕は、こういう容貌や姿体の女性たちに恋をすることは、絶対にないな)
という確信であったのだ。
マネキン人形に恋をすることがないように――
ない。
もちろん、たまに奇特な男がいて、マネキン人形に恋をする場合もあるかもしれないが――
僕には、ない。
恋をしそうにないのだから――
そこに色気があるわけはない。
色気の断片すらないといってよい。
では――
なぜ、「色気ではない」と確信したものを、「色気のようなもの」と考えたのか。
たぶん、頭での理解なのである。
化粧品の広告なのだから、女性を惹き付けるようにできているに違いない――
つまり、あの女性たちの容貌や姿体は、女性が自分自身に望む魅力を、反映しているに違いない――
それは、あくまで女性の魅力であるのだから、男の僕にとっては、「色気のようなもの」と認識されても、おかしくはないであろう、と――
頭での理解が困惑を招くということは――
実は、そんなに珍しいことではないのかもしれない。
人が困惑するのは、頭が十分に回転するからかもしれない。
さっぱり頭が回転していない人というのは――
むしろ、そんなには困惑しないのかもしれない。
思考は困惑を招きうるが――
直観は困惑を遠ざけうる。