先頃、北京オリンピックの野球アジア最終予選が、台湾の台中で行われ――
接戦の末、日本代表チームが予選突破を決めた。
日本、韓国、台湾、フィリピンの4チームが1試合総当たりで対戦し――
首位チームのみが本大会に出場できるという過酷な超短期決戦であった。
日本は実力的には頭一つ抜けているとみられていたが――
それだけに、選手たちには相当な重圧がかかっていたようである。
野球の場合、一般に短期決戦では実力が反映されにくい。
実力的に優れたチームでも、一発勝負で確実に勝ってみせることの難しさは、筆舌に尽くしがたい。
よって、日本のマスコミは今回の予選大会を、
――死闘
などと表現し、勝負の厳しさや闘争の激しさに重点が置かれていた。
だからであろう。
日本代表チームの主将を務めた宮本選手が、大会後に、気になるコメントを発していた。
曰く、
――戦争のつもりで戦った。
と――
(う~む)
と思った。
たしかに、よく使われるフレーズである。
特に奇異な発言とは思わない。
が――
少なくともプロのスポーツ選手には――
いって欲しくはなかったコメントである。
当たり前だが――
スポーツは戦争ではない。
戦争はスポーツの対極にある。
スポーツとは桁違いに悲惨である。
その悲惨さを実感するには――
以下のようなことを想像してみるとよい。
もし、今度の予選大会が、本当に戦争であったなら――
いったい、どういう結末になっていたか、である。
戦争とは無秩序な殺し合いだ。
こう述べると、
――無秩序ではない!
と抗弁する人がいる。
たしかに、戦争にも最初のうちは秩序らしきものがあるのだが――
それも、戦いが進むにつれて、次第に失われ、最後は無秩序な殺し合いとなる。
戦争とは、結局は、
――人間同士の殺し合い
なのだ。
例えば――
1941年の真珠湾攻撃で、日本軍はアメリカ軍を相手に大勝利をおさめた。
それでも――
この作戦に参加した数百人のパイロットたちの1割程度は、帰って来なかった。
途中で殺されたり、死ぬしかない状況に追い込まれたり、したのである。
一方、今回のアジア最終予選で、日本代表チームは韓国や台湾の代表チームを相手に、見事に首位の座を勝ち取った。
その「戦果」は、真珠湾攻撃に勝るとも劣らない。
「大勝利」といって、差し支えあるまい。
が――
もし、今回のアジア最終予選が、本当に戦争であったなら――
いったい、どうなっていたであろう。
戦争とは無秩序な殺し合いである。
だから、真珠湾攻撃に匹敵するような「大勝利」をおさめた場合であっても――
選手たちの1割は、帰って来なかったはずである。
帰ってこなかったかもしれない選手たちの中には――
例えば、韓国戦で最終回を三者凡退で抑えてみせた上原投手が含まれているかもしれないし、台湾戦で無死満塁の場面から冷静にスクイズを決めたサブロー選手が含まれているかもしれない。
上原投手やサブロー選手のような優れた人材が、生きて日本に帰って来ることがない――
それが戦争なのである。
だから――
やはり、スポーツを軽々しく戦争になぞらえるのは、やめたほうがよい。
スポーツの「死闘」は――
実際には死闘ではない。
本当の死闘の悲惨さや愚劣さにこそ――
僕らは注意を向けるべきである。
その意味で――
宮本選手の「戦争のつもりで戦った」とのコメントは――
懸念されて然るべきであった。
もっとも――
その言葉の前に、
――表現は悪いけど――
との断りがいれられていた。
そこは見識である。