スポーツのゲームは、ディレクターのいないTVドラマみたいなものだ。
どのような筋書きになるかは、観客はもちろん、俳優たちにも、わからない。
つまり、スポーツのゲームがもつ迫力とは、現実の不条理に根差しているといってよい。
これに対し、本物のTVドラマがもつ迫力は、虚構の論理に根差している。
TVドラマは、ディレクターによって、徹頭徹尾、計算し尽くされているのが、ふつうである。
が――
スポーツのゲームが現実の不条理に完全に支配されてしまうと――
観客は大いにシラけるものだ。
例えば、ナイターで、突然、停電となり、ゲームが中止になったりすることは、現実の不条理の最たるものであるが――
そのときの観客のシラけ具合は、想像を絶するものがある。
同じように、ディレクターがTVドラマを、あまりにも緻密に計算しすぎると――
観客は、やはり大いにシラけるものではないか。
例えば、スポンサーの意向に忠実すぎて、まったく遊び心の感じられぬTVドラマは、非常に退屈である、というように――
現実の不条理の中にも虚構の論理がある。
虚構の論理の中にも現実の不条理がある。
両者が、うまい具合に合わさることで――
人の心は動かされる。