――人間の営みにはムダなことも必要である。
と、いわれることがあります。
例えば――
娯楽の多くは、突き詰めて考えれば、ムダなことですよね。
この世から行楽地がなくなっても――
とりあえずは困らないし――
物語がなくなっても――
賭け事がなくなっても――
音楽がなくなっても――
演劇がなくなっても――
まあ、とりあえずは生きていけます。
が、
――娯楽は全く必要でない。
と主張する人は、そう多くはないでしょう。
この、
――ムダではあるが、必要でないわけではない。
というのは――
いったい、どうしたことでしょうか。
必要でないわけではないのなら――
ムダでもないのではないでしょうか。
なんだかスッキリしませんね。
頭の中がモヤモヤとしてきます。
実は、
――人間の営みにはムダなことも必要である。
と、本気で主張している人たちは、
――必要性が全く感じられないムダであっても必要である。
という感覚を持っているようなのですね。
といっても、これでは言語的矛盾ですから――
矛盾がないように言い換えますと、
――必要性が全く感じられないムダであっても、決して排除してはならない。
ということです。
これは、よく考えると、スゴい主張です。
「ムダをなくす」ということは――
だいたいは「洗練させる」ということに等しいでしょう。
よって、
――ムダを排除してはならない。
ということは、
――物事を洗練させてはならない。
ということに通じます。
――人間の営みを洗練させるなよ!
と――
これって、ある意味、人間の本能に逆らっていると思うのですよね。
人間というものは、放っておけば、つねに物事を洗練させようと動くものです。
とくに、理知的に振る舞おうと意識している人間は、つねに物事を洗練させようと動いていく――
そうやって、今の人間の文明が築き上げられてきたわけです。
もし、人間の文明に危うさを見出すとしたら――
自らを洗練させていこうとする傾向それ自体かもしれません。
とはいえ――
洗練がなければ「文明」とは呼びがたいのですから――
もう、どうしようもない。
こうした傾向は、人間の文明が存続する限り、持続することになるでしょう
もし、人間がムダを排除しようとせず、かつ、文明が洗練を追求しようとするのなら――
究極的には――
遠い将来、人間が文明を始末するか、文明が人間を駆逐するか、という話になりえます。
人間が文明を始末するのだとしますと、原始時代に還るだけですので――
先はみえてきますね。
ところが――
文明が人間を駆逐するのだとしますと、かなり面白いことになりそうです。
文明というものは、いわば理知的に振る舞おうとする人間の本能が外界に滲み出て結晶化したものですから――
その文明が人間を駆逐するということは、おそらく――
人間が、これまでのような内界をもった人間ではなくなる、ということです。
いわば、理知の塊になる、と――
――娯楽など、必要ない!
と断定してしまうような人間です。
それは新たな生命種の誕生を意味するでしょう。
今の人間の文明が抱えている深刻な問題の数々というのは――
例えば環境問題などは――
もし、それが本当に解決されるのであれば――
こういう形で解決されるのではないでしょうかね。