お正月も七日になると、すっかり平常の気分です。
あらたまった感じなどは、もうしない。
例えば、職場で同僚たちと、
――お正月はゆっくり休めましたか?
――いやいや。それが、なかなか――
みたいに交わす会話が――
いわゆる正月気分をキレイに吹き飛ばしてくれています。
こうした会話を繰り返す度に思うのですが――
お正月というのは、落ち着いて考えてみると、実は全然、休めない期間なのですよね。
親元に帰ったり、子供を連れ出したり――
むしろ、平常よりも忙しいというのが、ふつうでしょう。
しかも、ふだん、やりなれないことをやるものだから、疲れは倍加する。
僕は、お正月は、たいてい外で働いているのですが――
それでも、たまに休みが入ったりすることもあります。
そういう年は、むしろ、お正月がゆえに、あちこちに出向いたりしますので――
かえって疲れがたまってウンザリとする。
むしろ、お正月の間中、ずっと外で働いているほうが、かえってゆったりとした気分を味わえたりする。
見事なまでの逆説です。
あまり楽しくない逆説ですがね。
でも、こうした実態があるために、
――お正月はゆっくり休めましたか?
――いやいや。それが、なかなか――
みたいな会話は――
そんなに陰鬱なやりとりにきこえないところが面白い。
むしろ、人々の安堵の気持ちを表しているように思えて――
何だか微笑ましく感じられることが多々あります。
たしかに、言葉だけを取り出すと、
――せっかくのお正月だったのに、ちっとも休めずに、もったいなかった。
と、文句を言い合っているようですが――
実は、そうではない。
――お正月の忙しい期間を、なんとか無事に乗り越えられた。やれやれだった。
と、互いの健闘を讃え合っているようです。
ここに本音と建前とが複雑に入り交じった日本社会の有り様の一端をみる思いがします。
お正月 = 忙しい
であると、皆、心のどこかではわかっているのに――
あえて、
お正月 = のんびり
と思い込むような――
そうすることで、皆でお正月気分を演出し合うみたいな――
こうした有り様は、とくに日本社会に固有であるとはいえないようです。
例えば、アメリカ社会にはアメリカ社会なりの本音と建前とがあって、それらが複雑に絡み合っている。
人間は、個として生きていくためには本音が必要ですが――
衆として社会を成すためには建前が必要なのでしょうね。