映画やTVドラマのウソは、鑑賞者や視聴者をウソの共犯者に仕立て上げようとするところに特質があると考えています。
「ウソ」というのは、虚構という意味です。
もちろん、小説やマンガにも同じウソはありますが――
映画やTVドラマなどの実写の映像は、映像自体は本物ですから、逆に、ウソが目立ってしまう――
ひいては、ウソの特質も目立ってしまう。
つまり――
小説やマンガよりも映画やTVドラマのほうが、よりあからさまな共犯を要請される、ということです。
例えば、男優が女優に、
――お前は美しい。
といったとする。
でも、それはお芝居ですから、虚構――つまり、ウソですね。
ところが、その男優や女優は現実の人間で、生身の体や実質の声などを持っている。
その生身の体や実質の声がウソを具現させようとするから、逆にウソが目立ってしまう――そういうカラクリです。
このカラクリは、どんな名優にもつきまといます。
もし、名優の演技がウソっぽくないのだとしたら――
それは、その名優が、こうしたカラクリから自由になっているためではなくて――
みる人たちを共犯者に仕立て上げる技巧に優れているからです。
――ひとつ、この俳優のウソにつきあってみるか。
と思わせる技術ですね。
もちろん、こうした技術は、名優の演技だけではなく、脚本や舞台なども含めた広い意味での演出に基づくものでしょう。
ですが――
ひとつ、やはり、どうしても指摘しておきたいことは――
どんなに演技や演出が優れていても――
それをみる人に、共犯者になろうする意志がなければ、全然ダメなのですよね。
どんなウソも、ただのウソに終わってしまう。
僕は、20代前半までは、よくTVドラマをみていましたが――
今は、まったくといってよいほどに、みなくなりました。
それは、最近のTVドラマの質が落ちているからとか、そういうようなことではなくて――
単に、共犯者になる意欲が萎えてきたからです。
TVドラマの質自体は、むしろ、僕が一生懸命にみていた頃よりは上がっているんじゃないでしょうか。