今日は――
夕方、書店で用をすませた後に、TVゲームの攻略本の売場などをホッツキ歩いていて――
ふと場違いなことを考えました。
――科学のゲーム性
についてです。
ゲームというのは、ふつうの意味でのゲームです。
例えば、TVゲームの「ゲーム」ととっていただいて構いません。
つまり、科学研究に科学者を没入させる素因は、TVゲームにプレイヤーを没入させる素因と大差ないであろうということです。
もちろん、科学のゲームは、TVゲームよりも遥かに手間がかかりますよ。
具体的には――
まず教科書や論文などを読み、そこで学んだ知見を基に仮説を立て、実験を計画し、実験の設備を調え、実験を実行し、その結果をみて仮説の妥当性を判定し――
というような過程を経ていきます。
――ちょっと遊ぼうか。
と思ってゲーム機のスイッチを入れるのとは、わけが違います。
でも、そこだけでしょうね、違いは――
こんなことを、なぜTVゲームの攻略本の売り場で考えたのかというと――
正月に、そんなところをホッツキ歩いていたからです。
大学院時代に、正月3日に実験をしていたら、ベテランの実験家に、
――正月に実験とは感心だ。私にはできない。
というようなことを、いわれました。
たぶん、いった当人に悪意はなかったのですが――
僕は、そこに皮肉を感じとり、
(科学の実験ってのは、TVゲームみたいなもんなんで、そんなに頑張って真面目にやるもんじゃないのは当たり前だろが!)
と――
内心、激しく反発したことを覚えています。
「皮肉」というのは、
――お前、すげえ真面目だなあ!
といった類いの揶揄のことで――
僕は、幼少の頃から、そういわれやすい行動パターンを持っているために――
この手の揶揄が大嫌いなのですね。
だから、過敏に反応したのだと思います。
もっとも、表面上はヘラヘラと笑っていたはずですが――
苛立ったときほど、僕はヘラヘラと笑うのです。
それはともかく――
科学というのは、実験に限らず、TVゲームのようなものだと、僕は考えています。
こうした考えは10代の頃から持っていまして――
二十歳くらいのときに、
――科学者は遊び人である。
と、かなり挑戦的な評論を書き――
それが多くの科学者の目に触れるところに掲載されたのですが――
どなたからも、お叱りは受けなかったのですね。
たぶん、本質の一端を突いていたからだと思います。
もっとも、そのことと僕自身の身の振り方とは、とくに関係はありません。
あいにく――
僕はTVゲームの楽しさが好きではなく――
だから、大学院時代も科学を好きにはなれず――
今も科学の現場に戻る気などはサラサラないのですが――
もし、僕にTVゲームの楽しさに夢中になれる気質があったなら――
今も研究室で働いているでしょうね。
好き嫌いを別にすれば、TVゲームが楽しいということには、僕も完全に同意します。
ところで――
科学のゲーム性は、科学が遊びであることを保証するものではありません。
時代は変わっています。
僕が二十歳だった頃(1990年代の前半)は、
――科学者は遊び人だ。
といっても、笑って済まされましたが――
今は違うでしょう。
実際、大学院時代に、僕が、いつものように持論をぶっていたら、
――科学は遊びではない!
と、大真面目に反論する人もいました。
もちろん、研究室で給料をもらってやっている以上、遊びでないのは当然ですが――
それは、プロ野球選手にとっての野球が遊びでないのと同じでありまして――
そんな断りが必要なほどに――
今の科学の現場はビジネスの色彩が強くなっています。
科学が遊びであった時代は終わったのかもしれません。
それでも、科学はゲームではあり続けるでしょう。
ちなみに――
科学と聞くと多くの人が科学技術を連想します。
科学技術は遊びではありませんよ。
あれは産業でしょう。