マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

美の基準は自分で決める

 何かを美しいと思うかどうかは――
 それを美しいと思いたがる願望の一端にすぎない、と感じることがあります。

 ――と感じることがあります。

 というよりは、

 ――と感じてばかりいます。

 というほうが、昨今の僕の心境には近いですね。

 もちろん、こうした議論を真面目にやり始めたら、論理の隘路に嵌ります。
 その願望はどこからきているのかとか、願望の主体を勝手に想定してはならないとか、色々と厄介な議論が展開され始める――
 それはそれで、まあ、一理あるといえないこともないのですが――

 差し当たり、僕がいいたいことは――
 こうです。

 例えば、Aという人が、

 ――醜い

 と思うものであっても、Bという人が、それを、

 ――美しい

 と思いたがっているのであれば――
 Aにとっての醜いそれは、Bにとっては十分に美しいものになりうるのではないか、ということです。

 僕自身、そういうものをたくさん経験しておりまして――
(これを僕はスゴく美しいと思うけれども、他の人がみたら、きっと醜いと思うだろうな)
 と感じることは、しょっちゅうです。

 これって、僕には、かなり面白いことなのですね。
 ワクワクします。

 自分の美の基準は自分で決めてよい――
 というか――決めざるをえない――ということが――
 どれだけ僕を勇気づけ、かつ肩の力を抜かせてくれたか――
 それを思うときに、僕はワクワクするのです。

 裏を返すと、
(皆が美しいと思っているものを、ムリに美しいと思わなくてもいいんだ)
 ということです。

 そう割り切れたときに――
 春の桜が、僕には、たまらなく美しいものに思えてきました。

 20代後半のことです。

     *

 もうすぐ、桜の季節ですね。