マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

説明の上手・下手

 同じ内容のことを説明するのも、どの順番で説明するのか、どの言葉で説明するのかで、印象は変わってきます。
 つまり、説明というものは、誰がやっても同じというわけではありません。
 上手な人がやれば良い結果をもたらし、下手な人がやれば悪い結果をもたらします。
 ここでいう「結果」とは、説明を受けた人の印象です。

 が、一般に、説明の上手・下手というのは、あまり重視されていないように思います。
 説明のための準備ばかりが重視をされ、説明それ自体は、むしろ軽視をされている。
 少なくとも、この国では、そうでしょう。

 最も典型的な例は、ひと昔まえの国会ですね。
 政治家ではなく官僚の答弁が、とくに珍しくもない状況でした。

 政治家の活動の場である国会で、政治家が、全てではないにせよ、官僚に実際の説明の機会を与えていたということは――
 説明をする側も説明を求める側も、説明それ自体には、とくに重きを置いていなかったということです。

 もちろん、政治家が自分で説明するリスクを避けていたという一面も、見過ごせないのでしょうが――
 ことはメンツの問題でしょう。

 政治家が国会で説明をすることに誇りを感じていなかった――
 ややこしい内容の説明を官僚に任せても、とくに恥ずかしくなかった――
 ということが、ことの本質であったと思います。

 昔の政治家には、説明をすることに誇りをもって欲しかったですね。

 その点、今の政治家には、かなりの好印象をもっています。
 皆さん、ちゃんと説明をしますものね、内閣総理大臣も含めて――
 TVカメラの前ではもちろん、国会の場でも――

 今の政治に問題がないとは、決していえませんが――(笑
 この点だけは、高く評価してよいと思うのです。

 政治が変われば、社会も変わりえます。

 近い将来、説明の上手・下手を万人が意識する時代になるのかもしれません。