マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

恋は物語にならない

 愛は物語になっても――
 恋は物語にならないと考えています。

 例えば――
 AくんがBちゃんをいかに愛しているかで、色々に心情描写をすることはできても――
 AくんがBちゃんにいかに恋しているかでは、通り一遍のことしか描けないでしょう。

 せいぜい、AくんのBちゃんに対する恋が、どの程度のものか――どれくらい真剣で切迫したものか、あるいは、どれくらい軽薄で悠長なものか――を描くだけです。
 どんな種類の恋かは、描写しようがない――

 なぜなら――
 おそらく恋には1種類しかないからです。

 恋に多様性はないといってよいと思います。
 少年が少女に抱く恋心は、洋の東西を問わず、飽きれるくらいに均質です。

 さらに恐ろしいことに――(笑
 老翁が老婆に抱く恋心も、たぶん、少年らのそれと、根本的には同質であるように感じられます。

 その根拠をどこに求めるのかといえば、

 ――恋は生物学的応答の一形式であろう。

 との推論です。

 人間の恋と動物の発情との間に、何か本質的な差異を見出すことは、おそらくは困難でしょう。

 物語にとって――
 恋は出発点ないし終着点です。

 登場人物の恋が指摘されたあとで、次第に愛の描写に移ろっていく――
 あるいは――
 登場人物の愛の描写の中に、あるとき、不意に恋の暗示が混じってくる――
 そうやって、物語は佳境を迎えます。

 以上の議論では、

 ――愛とはなにか。

 ――恋とはなにか。

 を、自明のこととしてあります。

 よって、それらが自明でない方にとっては、雲をつかむような話でしょうが――
 ここで僕が明確に述べておきたいことは、以下のことです。

 すなわち、

 ――物語において、愛は描写されうるが、恋は描写されえない。単に指摘されたり暗示されたりするだけである。

 という命題です。