ふだん、人を相手にサービス業をやっているので――
その日にあった印象ぶかいことの多くは、守秘義務が付きまといます。
よって、『道草日記』には書けないようなことばかりなのですね。
このことは、僕が日頃、『道草日記』と銘打っておきながら、日記らしい日記を書いていないことにも関係します。
日記らしい日記を書いたら、大変です。
僕一人では責任を取りきれません。
だから――
とりわけ『道草日記』を書くときには、なるべく、自分の内面世界に的を絞るようにしているのです。
で――
今日も、そんな風に的を絞っていたら、
(あ――)
と思いました。
(僕は、スポーツ観戦が嫌いになりつつあるのかもしれない)
と思ったのです。
*
――趣味は?
と訊かれれば、
――スポーツ観戦
と答えているのですが――
本当は、そんなにスポーツ好きではないのです。
好きだったのは、あくまでも「観戦」であって、「実戦」ではないのです。
それは、もう10年以上前から、実感しておりました。
が、今は「観戦」も嫌いになりつつある――
例えば、今夜も、サッカー南アフリカW杯の予選の試合をTVでみていて痛感をしたのですが、
(これみてたって、ただ闘争本能が刺激されるだけだよな)
と感じたのですね。
みていたのは日本代表の試合です。
だから、ふつうにハラハラドキドキしたわけですが――
でも、それは日本代表の試合だからであって――
他の代表チームの試合をみても、何とも感じませんからね。
(あ~、やってるな~)
という感じで――
どうやら僕は――
自分の闘争本能を刺激したくて、サッカーの試合をみているらしい――
それも日本代表の試合を――
最近、僕は、この「闘争本能」というのに辟易としているのです。
例えば――
10代の頃は、戦争モノの小説や映画やマンガなどを好んでいたのですが――
30歳を過ぎた頃には、本当にイヤになっていました。
本当にイヤなのですよ。
社会通念に照らした正論でいっているのではなく――
(マジで、もうイヤだ)
といった感じです。
人間の闘争本能が最も素直に露出するのは戦争であると僕は考えています。
戦争というのは、あくまでも社会的行為ないし現象ですから、戦争では、剥き出しの闘争本能が肯定されやすいのです。
(まだ犯罪のほうがマシ――)
とすら思います。
犯罪では、剥き出しの闘争本能が肯定されることはないからです。
犯罪は反社会的行為なので――
闘争本能への肯定・関心・好奇心から、辟易感・嫌悪・否定へ――
それが、僕の内面世界の変化の主流にあります。
スポーツ観戦の意義も、そうした変化によって、徐々に絡めとられつつあるようです。