マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

公言できることというのは

 昔、大学の研究室にいたときのこと――

 ことがあるごとに、

 ――自分さえよければ、それでいいのさ。

 と公言する研究者がいました。

「自分さえよければ」というのは――
 例えば、自分の実験のデータさえとれれば、他人の実験はどうなってもいい――自分の研究の資材さえ確保できれば、他人の研究の資材はどうなってもいい――
 というニュアンスです。

 もちろん、実際には、そうであるわけがなく――
 研究室にいる全員が、それぞれに自分の研究を全うできるように、全員で配慮し合うのが、当然のルールです――
 大学の研究室とて、人間社会の一部なのですから――

 事実、「自分さえよければ、それでいい」といっていた研究者も、言い方を冗談めかすことは忘れていなかったので――
 本気で、そう思っているわけではないようでした。

 が、それを厳しく咎めだてる研究者がいたのですね。

 ――そんなことではいけない。

 と、真顔でいうのです。

(そんなの当たり前じゃないか!)
 と呆れました。

(なに考えてるんだ、この人は?)
 と――

 皆が冗談と解釈することを、そうとは解釈せずに――
 かつ、そうした態度が、いかに皆を白けさせるのかを――
 痛感させられた出来事です。

 人間、概して、本気で思っていることは公言できないものでしょう。

 公言できることというのは、多くの場合は、どうでもよいことです。

 どうでもよいことは、どうでもよいこととして――
 冗談と解釈してあげるか、聞いて聞かぬふりをしてあげるのが、よいでしょう。