(人間に自由意志など、本当はないのではないか)
と思うことがあります。
例えば、今、僕はシャワーから浴びたばかりで、薄着のまま調べものをしておりました。
しばらく、そのままでいたら、かなり涼しくて気持がよかったので――
何となく、そのままの恰好で調べものをしていたのですが――
あるとき、ふと、このまま薄着でいて体を冷やすことが気になって、
(まあ、今すぐじゃなくてもいいんだけれど、一応、今、上着を羽織っておくかな)
と思って、上着を羽織ったわけです。
この僕の一連の思考や行為は、一見すると、僕の自由意志に基づいているように思えますが――
実際には、体の諸感覚器から脳へ送られた無数の情報が、脳によって、本人が無意識のうちに、処理された結果かもしれません。
いや――
その「本人」である僕が、あとになって、
――脳によって、本人が無意識のうちに――
などと述懐しているくらいですから――
「上着を羽織った」という僕の行為は、むしろ、僕の自由意志に基づいてはいないのかもしれないのですが――
それにもかかわらず――
僕は、それを、
(自分の自由意志に基づいた行為であった)
と思い込もうと思えば思い込めたかもしれない、ということに――
より重要な問題点を見出すのです。
つまり、自由意志とは、脳が自分を司っている意識を納得させるために捻り出された虚構ではないか、ということです。
こうした観点に立てば、意識は「脳を司っている」のではなく、「脳を司っていると思い込まされている」にすぎないことになります。
西欧の哲学者たちには、多分とうてい受け入れることのできぬ結論でしょうが――
僕個人は、それを受け入れたところで、特段、痛くも痒くもないだろう、と感じます。