昨日の『道草日記』で、
――北斎や広重の浮世絵をみていたら、江戸を明治に繋ぐものはないと感じた。
というような話を述べました。
なぜ、そのような結論に至ったのか、自分でも訳がわからずにいるのですが――(笑
一夜明けた今日、このことについて、もう少しだけ理詰めで考えてみたいと思います。
*
明治の為政者たちの最大の失点は何であったかというと――
自前で新政権を樹立しなかったということです。
江戸の武家政権を打倒したまではよかったのですが――
その後、自前の新政権を立てられなかった――
京の公家政権を、自分たちに都合良く改変し――
それを、京から江戸へサクっと移してしまった――
ここでいう「明治の為政者たち」というのは、主には薩長土肥の下級武士たち、および、彼らの政略にのった京の公家たちです。
彼らは、公家政権の象徴である天皇の権威を、最大限に利用した――
天皇以外に、自分たちの政権を統べるカリスマをみつけられなかったからです。
が――
この国では、平安期以降、天皇を政権の中枢に据えないという伝統がありました。
その伝統を破った唯一の例が、鎌倉末期の建武の新政です。
建武の新政は、わずか3年で潰えます。
ということは――
その時代に、すでに、この国は天皇を政権の中枢に据えたのでは立ち行かぬ国へと、変貌を遂げていたのです。
したがって、明治政府が半世紀で潰え、昭和になってアメリカからマッカーサーらを迎えることになったのは――
明治の為政者たちが、後醍醐帝らと同じ過ちを抱えながらも、後醍醐帝より遥かに巧みに天下の政を牛耳ったことを意味します。
つまり――
同じ過ちを抱えていたから、たった半世紀で潰えた――
遥かに巧みであったから、半世紀は潰えずに済んだ――
そういうことです。
建武の新政は、鎌倉期や室町期移行江戸期までの歴史を俯瞰するに、異様な断絶に思えます。
あまりにも時代の流れに乗り損ねていた――
あるいは、時代の流れの行方が、よめなさすぎていた――
それと同じことが、明治維新にもいえるのではないでしょうか。
昨日の『道草日記』で、
――江戸を明治に繋ぐものはない。
と述べました。
つまり、明治維新以後マッカーサーらの進駐までは、日本の歴史の異様な断絶ではないか、ということです。
が、
――江戸を平成に繋ぐものなら、いくらかはあるのではないか。
と――
そう思うのです。
昨日、僕がTVで北斎や広重の浮世絵をみて――
その絵の向こう側に感じ取ったものは――
平成の世の雰囲気にも似た何かであったに違いないのです。