マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

論の創造性

 昨日の『道草日記』で、

 ――何かを論じるときに、その論は短小かつ単純であれば洗練されており、長大かつ複雑であれば未熟である。

 と述べました。

 このことは、実は、論の創造性に関わることです。

 すなわち――
 短小かつ単純な論は、創造されたものであり――
 長大かつ複雑な論は、想像されたものです。

 その論を構成しうると思われる部品を単離し、一つひとつを精査し、それらを組み合せて、一から論を練り上げる――
 それが「創造」です。

 これに対し、それら部品を複合体のままで寄せ集め、何となく思いを巡らせながら、複合体同士を寄り合わせていく――
 それが「想像」です。

 何かを論じる場合でないのなら――
「想像」が威力を発揮することはあります。

 いえ――
 むしろ、「想像」が威力を発揮する場合は「創造」よりも多彩です。

 例えば――
 気心が知れた者同士で気楽に雑談を重ねるとき――
 自由にアイディアを出し合うブレイン・ストーミング――
 作家や映画監督が物語の構想を掘り下げるとき――

 そういうときは、「想像」が威力を発揮します。

 が――
 何かを論じるときには、「想像」は無力です。

「想像」は何も作り上げません。
 その論の周辺にあると思われるものを、漫然と散らかしていくだけです。
 散らかった論の構成要素候補を、いたずらに弄んでいくだけです。

 そうやって寄り合わされた論は、すべからく長大かつ複雑になります。
 長大かつ複雑な論にみるべきものがないというのは、このことです。

「創造」されたものには、ムダがありません。
 ムダに作り込まれることもありません。
 そんな暇は、真の創造者にはありません。

 なぜなら――
 論を一から練り上げるということは、とても大変なことなのですから――

 遊んでいる余裕はないのです。

 なお――
 以上は、ここでいう「創造」や「想像」のことであって――
 普遍的な語意に言及するものではありません。