マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

大人の女

 大人の女と子供の女とがいるのなら――
「大人の女」とは、どういう女性なのでしょうね。

「子供の女」というのは簡単です。
「娘」ということです。

「娘」は、やがて恋をし、男を愛し、子を成して、母親となりますが――
 この「母親」という概念が「大人の女」に近いことは間違いありません。

 が、ちょっとズレているとも思うのです。

「大人の女」であって「母親」ではない女性というのは、現に、たくさんおられますし――
 その逆も、たぶん、たくさんいるのです。

 もちろん、両者に重なりがあることは確かでしょう。

「大人の女」と「母親」との共通点としては――
 ともに自分で自分自身の面倒がみられるということが挙げられましょう。

 では、相違点は何か。

 もちろん、表面的には、

 ――子供がいるか、いないか。

 ですね。
 子供がいれば「母親」であり、いなければ「大人の女」です。

 が、その背景にある事情とか事象とかを注意深くみるならば――
「母親」にとっての子供とは、自分が面倒をみなければならない相手――みずにはいられない相手――ですね。

 つまり、「母親」というのは「自分で自分自身の面倒がみられる」という要件以外に――
「自分で子供の面倒がみられる」という要件を満たすのです。

 これが「母親」にあって「大人の女」にはない要件だとすれば――

 では――
「大人の女」にあって「母親」にはない要件とは何でしょうか。

 それは、

 ――他者に見返りを求めない気構えがあるかないか。

 だと考えています。
 自分の女としての振る舞いに対し、いかなる見返りも求めないのが「大人の女」であり、求めるのは「母親」である、と――

「母親」の中には子供に見返りを求める人が大勢います――
 もちろん、それは人情としては自然なことですが――もし、それを求めてしまったら、やはり、その人は「大人の女」ではない気がする――
 たぶん、ただの「母親」なのです。

 つまり――
「母親」で「大人の女」である女性というのは、実に偉大な賢母なのですね。

     *

 今夕、ネットでニュースをみていたら、

 ――元タレントの飯島愛さんが自殺したらしい。

 と知りました。

 飯島さんは、とくに好きでも嫌いでもないタレントさんだったのですが――
 かといって、無関心だったわけではなく――
 むしろ、ずっと気になっていた人でした。

 僕は飯島さんとは同世代です。
 それだけに、飯島さんがAV女優として全盛だった頃も、知らないわけではありません。

 印象に残っているのは――
 飯島さんが女優業を辞めるか辞めないかの頃に――
 ある週刊誌が若いビジネスマン向けの講演会を取材していたことです。

 その会の講演者が、飯島さんでした。

 その記事には、会場の模様が写真で掲載されていて――
 演壇の向こうには、

 ――飯島愛先生

 という垂れ幕が掛かっていました。
 本文には、

 ――「飯島愛」という固有名詞に「先生」という敬称が連なっているのは、何ともいえず、驚きである。

 といった内容のコメントも書き添えられていました。
 まさにその通りだと、僕も思いました。

 飯島さんは、「大人の女」と形容されることの多い人でした。
 たぶん、本当に「大人の女」であったのだと思います。

 だって――
 他者に見返りを求めるような人が、AV女優からTVタレントへの転身を劇的に成功させてみせたり――
 芸能界の引退を周囲に惜しまれながらも毅然と決意してみせたり――
 そういったことは、まず、できないと思うからです。

 亡くなったという報道が正しければ――
 飯島さんが「母親」になることは、もはや永遠になくなったのですね。

 飯島さんのような「大人の女」が、どんな「母親」になっていたのかと思うと――
 残念でなりません。