マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

教養人の香り

 例えば、男女のことも社会と個人とのことも、同一の視点で語れる点が、教養人の才覚だと思っております。

 一方、男女のことも社会と個人とのことも、綺麗事だけでは済まされない側面があります。

 よって、教養人はまた――
 話を綺麗事では終わらせない覚悟と、それを具現させる才覚が必要です。

 人間の狂暴性や破壊性、堕落性、悪徳性などにも――
 十分に気を配ることが求められます。

 ところで――
 教養とは、一見、無関連にみえる事物に関連を見出す知の営みである、といわれます。

 例えば、男女の交流と社会や個人の動態とに関連があるようにはみえませんね。
 男が女性の関心をひくための交際技術と、国家が有権者を抑圧していく過程とは、全く別次元の話として受けとられるのが普通です。

 が――
 そこに関連を見出すのが教養です。

 安易に切り分け、整理してしまおうという態度は――
 教養のある態度とはいえないでしょう。

 もちろん――
 例えば、

 ――どちらも人間の根源的欲求に基づく。

 など、上っ面だけで関連付けようとすれば――
 話は陳腐に終始します。

 そうではなく――
 両者が自然と関連付けられていくような――あるいは、そのような関連付けを可能にする着想の輝きや思想の流れのようなものをつかまえることが――
 たぶん、教養の本質なのです。

 そのような着想の輝きや思想の流れをみつけ、つかむためには、それなりの才覚が必要です――
 あたかも鉱山の金脈を探り当てるかのように、あるいは海面下の魚群を突き止めるかのように――

 つまり――
 教養とは、努力次第でどうにかなるものではありません。

 教養人とは、特定の才覚に恵まれた人たちなのです。

 そうした教養人のなかで、さらに――
 綺麗事と綺麗事でない事とを関連付けられる人がいたとしたら――
 その人は、もう、かなり天才的な教養人といってよいでしょう。

「教養人」というと、なんだか、

 ――毒にも薬にもならない人たち

 というイメージがありますが――
 実際は、そうではありません。

 ときに妙薬になり――
 ときに劇薬になったりもします。

 例えば、人間の高邁性と狂暴性とを、ときに、いとも簡単に繋げてしまうようなところがあるからです。

 教養人が、ときに放つ危険の香りについて――
 僕らは、意識の片隅に弁(わきま)えておくのがよいでしょう。