マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

学術論争というものは

 学術論争というものは、それが純粋に紙面の上だけで行われるときは、はなはだ不毛なものに終始しがちです。

 例えば――
 学者Aが論文や書籍などで主張したことに対して学者Bが、やはり論文や書籍で反論を繰り出し――
 さらに、それに対して学者Aが再反論を繰り出す、といったことです。

 学術論争は、互いに顔と顔とを突き合わせて行うのが最上です。

 紙面の上では、互いの顔がみえないので、どうしても中傷的になりがちです。
「中傷的に」というのが言い過ぎならば、「感情的に」と改めましょう。

 学術論争というのは、例えばゲーム的な討論とは異なり、論争する者同士の共同作業です。
 学術論争では、相手を打ち負かすことに意義があるのではなく、論争をすることによって、論争をする前には思いもしなかった着想や事実に行きつくことがあります。
 それが、学術論争の最大の利点です。

 紙面の上での学術論争では、そもそも論争の相手が、その紙面をみている保証はなく――
 仮にみていたとしても、すぐには反論ができないことがわかりきっているので――
 どうしても傍若無人な論調となりがちで、うっかり中傷的な批判を仕掛けてしまいがちです。

 その批判が、相手の更なる中傷的な批判を招き――
 さらに中傷的な批判を仕掛けてしまうことになるのです。

 学術論争は、すべからく互いの顔と顔とを突き合わせてやるべきだ、ということは――
 すでに故人となった学者に対しては、学術論争を挑むべきではない、ということを意味します。

 挑んでも仕方がないのです。

 反論が期待されない批判を中傷的に繰り出すだけで、自己満足に終わってしまいかねないからです。

 よって、故人の主張に対しては、取り入れたいものについては取り入れ、取り入れたくないものについては取り入れないということを、端的に指摘するだけで十分です。
 仮に、その故人の主張の中に明白な誤謬をみつけても、それを声高に指摘するのは余計なことでしょう。