マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

セオリー

 しばしば、

 ――セオリー通りに――

 といいますね。

 ここでいう「セオリー」というのは、

 ――基本的な方法・マニュアル

 といった程度の意味でして――
 英語の「theory」とは少し違った概念です。
 英語の「theory」は「科学の理論・学術的な論」といった意味で使われることが多いようですので――

 この「セオリー」について――
 ちょっと気になることがあるのです。

 しばしば、次のような主張を耳にします。
 すなわち、

 ――常にセオリー通りにやるのでは、あまりにも無策にすぎる。

 というものです。

 たしかに、その通りなのですが――
 ときどき「いつもセオリー通りにやるのがよいわけではない」の意味が、

 ――セオリーを守るのがよい状況かどうかを常に考えるべきだ。

 で解釈されていることがあるのですね。

 これは、よくないと思うのです。
 セオリーのセオリーたるゆえんがなくなってしまう――

 では、どのように解釈するべきか。

 ――セオリーを破るのがよい状況かどうかを常に考えるべきだ。

 なら OK だと思うのです。

 つまり――
 とくに何も異変がないときには、セオリーは守られるほうがよい、ということです。
 だって、そのために考案された基本指針がセオリーなのですから――

 もちろん――
 世の中は何が起こるかわかりません。

 基本指針が考案されたときには想像すらされなかった事態が、いつでも起こりえます。

 そのときには、セオリーは破られねばなりません。
 セオリーが想定していない状況では、セオリーを守ってもしょうがないからです。

 つまり――
 セオリーとは、「守るべきかどうか」ではなく、「破るべきかどうか」なのですね。

「守るべきかどうか」と「破るべきかどうか」と――

「守る」ということは「破らない」ということであり――
「破る」ということは「守らない」ということですので――
「守るべきかどうか」と「破るべきかどうか」とでは、大した違いはないと思ってしまいがちですが――
 実際には、ちょっと無視はできない違いです。

 喩えるならば――
 穴が所々に空いた地図をみるときに、穴のないところに注意を向けるか、穴のあるところに注意を向けるかの違いです。

 穴のないところは、そこに描かれているものを、ただ受動的に読み解けばよいのですが――
 穴のあるところは、そこに描かれてあるはずのものを、能動的に読み補わなければなりません。