ヒトを含む生命体が機械仕掛けであるかどうかを論じる際に、しばしば見落とされがちなことは――
機械というものは、それを設計した者やそれを利用しようとする者の主体が関わって初めて、その存在が成立するという性質があることです。
今日の科学的知見のほとんどは、生命体が機械仕掛けであることを示しています。
にもかかわらず、「生命体は機械だ」という主張が、しばしば感情的な反発を受けるのは、
――機械と機械仕掛けとは違う。
からでしょう。
設計者や使用者が関わることで存在が完結するのが機械とするならば――
機械仕掛けは、機械から設計者や使用者の関わりを差し引いたものです。
よって、機械も機械仕掛けも、幾つかの部品が組み合わさって作動することで、何らかの機能を発揮する、という点では何ら変わりありません。
注目すべきは、設計者や使用者が関わっているかどうかです。
パソコンや自動車などは、明らかに関わっていますね。
では、ヒトやネズミは、いかがでしょうか。
ヒトやネズミの設計者は存在しませんね。
もしも存在するとすれば、それは神様です。
あるいは、進化という作用の根源とでもいっておきましょうか。
使用者はどうでしょうか。
これは難しい――
昔は奴隷制度があって、人が人を使用することは当たり前でした。
現代社会でも、人が人を使用することはありますね――「雇用する」と呼んでいますが――
ネズミなどは、もっとあからさまに使用されています。
実験動物のラットやマウスが数多く犠牲にされてきたおかげで、今日の医学・生物学の知識体系が調えられました。
つまり――
ヒトやネズミの使用者というのは、厳然と存在するのです。
この事実は、あまり白日の下にはさらされません。
皆、頭ではわかっているけれども、積極的に直視しようとはしないものです。
「生命体は機械だ」という主張が嫌がられるのは、
――生命体にも機械と同様に使用者がいる。
という事実が暗示されるからでしょう。