マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

お話というものは

 お話というものは、多分どんな内容でもそうだろうと思いますが――
 語り手の動機がつかめない限りは、なかなか興味をもてないものです。

 もし、その動機が、常人の感性を逸脱しすぎていたり、語り手の独りよがりに終始しているならば――
 ほとんどの人が興味をもてないことでしょう。

 つまり――
 人がお話に興味をもつときというのは――
 そのお話の内容それ自体に興味をもつというのではなく、その語り手の気持ちに興味をもつときだろうと思うのです。

 例えば――
 僕はアクション映画の類いが全く好きではないのですが――
 その映画を撮りたいと思った監督の気持ちに興味をもったときには――
 たとえ、それがどんなにコテコテのアクション映画であったとしても、相応の興味をもって最後までみることができるでしょう。

 あるいは――
 僕はミステリー小説の類いが全く好きではないのですが――
 その小説を書きたいと思った作家の気持ちに興味をもったときには――
 たとえ、それがどんなにコチコチのミステリー小説であったとしても、相応の興味をもって最後までよむことができるでしょう。

 つまり――
 そのお話が、アクション映画に分類されるかどうかとか、ミステリー小説に分類されるかどうかとかは――
 大した問題ではありません。

 その映画や小説の語り手に共感できるかどうかが、問題なのです。

 そのとき、受け手の共感の焦点は、おそらくは――
 なぜ、語り手は、そんな派手な大立ち回りを必要としたのか――
 あるいは――
 なぜ、語り手は、そんな凝りに凝った謎解きを必要としたのか――
 といったところにあります。