マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

文芸に厳密性や緻密性はいらない

 お気に入りの CD を毎日のようにきくことはあっても――
 お気に入りの DVD を毎日のようにみることは、ほとんどないと思います。

 好きな歌なら何度でもきけますが――
 好きな映画では、そうはいきませんよね。

 歌は聴覚情報であり、映画は視覚情報と聴覚情報との混合です。

 歌は飽きにくく、映画は飽きやすいということは――
 ヒトの脳は、聴覚情報だけを処理する分には、そう簡単には飽和しないのだが、それに視覚情報が加わると、なぜか、すぐに飽和してしまう――
 ということのようですよ。

 ヒトの脳では、視覚情報を処理する部分が聴覚情報を処理する部分よりもかなり大きいことが知られています。
 このことが、何か関連しているのかもしれませんね。

 ところで――
 こうした議論をキチンとやろうと思ったら、厳密な準備が必要です。

 例えば、「脳が飽和する」とはいかなることかを、厳密に定義しておかないといけない――
 あるいは、こうした議論に実証をもたらすには、どのような実験や観察が必要かを考えたり――
 そうした実験が既になされていないかどうかを、緻密に調べないといけません。

 相当にカッタルい作業です。
 だから、今日はやりません(苦笑

 あ――
 未来永劫やらないかも――(笑

 なぜならば――
 そういった作業は、文芸とは基本的に相性が悪いからです。

 すぐれた文芸は、厳密性や緻密性とは違った価値観で評価されています。

 一般向けの科学書に数式が書かれていると、一気に売上が下がるそうですが――
 当然ですよ。

 数式は、たいていの言葉より厳密で緻密ですから――
 その分、柔軟性や充実性では劣りますがね。