例えば――
若い人が何か目標を設定するときに、
――いまにも実現しそうで、実はなかなか実現しないもの
が良いようですね。
たいそうな立派な目標であっても、それがとても達成できなさそうな目標ではダメですし――
いかにも達成できそうな目標であっても、それがあっという間に達成できる目標ではダメですね。
狙うのは、その中間です。
絶妙な目標が設定できるかどうかについては、センスに負うところが大きいのかもしれません。
巧い人は、子供の頃から、巧いですからね。
が――
そうしたセンスを経験で補うことはできるでしょう。
目標を繰り返し設定し、成功や失敗を重ねた上で、ようやくわかってくるコツ――というものがあります。
このコツは、いくら他人から教わっても、容易にわかるものではありません。
最後は自分の試行錯誤で会得するしかない――
ときどき、ご老人がこのコツを若い人に教えようと懸命になっているのをみかけますが――
たいていは頓挫しているようですよ。
いくら教えたって、わかるわけはないのです。
そのご老人自身も自分で会得したはずなのですから――
たぶん、そのご老人は、そういうものを他人から教わった覚えしかなく、自分で会得した覚えがないのでしょう。
他人から教わる過程で、その教えとは無関係に、いつの間にか会得してしまった、と――
でも、なぜか人から教わったものだと思い込んでいる、と――
どうも、そういうことのようなのです。
困ったことですね。
もっとも――
そのようなご老人は、僕の知る限り、そう多くはありませんが――
*
さて――
僕は何がいいたいのかといいますと――
要するに、
――人は、育てるものではない。育つものである。
ということです。
――「人を育てる」とは「人が育つのを邪魔しない」ということである。
と――
「邪魔しない」ということは、経験を積ませるということですよ。
成功も失敗も、どんどん積み重ねてもらう、ということです。
もちろん、そうした試みには忍耐が要ります。
自分の人生を一からやり直すかのような忍耐です。
かなりの我慢が必要でしょう。
が、見方によっては幸せなことでもあります。
「自分の人生を一からやり直すかのような」ということは――
自分の寿命が伸びているかのような錯覚を得られるということです。